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高野 常道(たかの つねみち、享保14年(1729年) - 文化12年2月13日(1815年3月23日))は、越後長岡藩の儒臣。通称は泰助。諱は常道。号は余慶。一般的には高野余慶として知られる。 == 生涯 == やはり越後長岡藩士で儒臣であった高野永貞(栄軒)の長子として生まれる〔『北越名流遺芳 第2集』17頁 、『三百藩家臣人名事典 4』14頁〕。常道は、伊藤仁斎を私淑し、兵法に通じ〔常道は、北条氏長の門弟・片山良庵に学んだ長岡藩士・真柄安勝以来の同藩における北条流軍学の学統を受け継いだとされる(『日本兵法史 上』423-424頁)。〕、旧典に詳しかったという〔。 藩主牧野忠寛に信任され、忠寛の2子牧野忠精と牧野忠義(後の有馬氏保)の侍読となる〔。以降牧野忠精に近侍した〔。常道の人物は、松平定信より「泰助(常道の通称)は君子なり」と称えられるほどであったとされる〔『北越名流遺芳 第2集』18頁、『三百藩家臣人名事典 4』14頁〕。藩主に46年仕えたうちの24年は江戸勤番であった〔。 隠居後も、常に四書五経を講じ、兵書古礼を説き、馬術、水練、弓術、砲術などを究めたという〔『北越名流遺芳 第2集』17頁〕。『由旧録』『軍用家訓』『軍中職掌考』その他多数の著作がある〔『北越名流遺芳 第2集』19頁、『三百藩家臣人名事典 4』14頁〕。常道の著であるとされる『昇平夜話』に見える、「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申付様にとの上意」とのくだり〔「昇平夜話附録」『日本経済叢書 第2巻』238頁 〕は、『本佐録』の「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道なり」と共に、江戸幕府の農民政策を示したものとして知られる〔『江戸時代の支配と生活』105頁〕。 文化12年(1815年)2月13日、87歳で病没〔『北越名流遺芳 第2集』19頁〕。墓は現在の新潟県長岡市西新町に所在する長福寺〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高野常道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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