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高隆之(こうりゅうし、494年 - 554年)は、中国の北魏末から北斉にかけての官僚・政治家。字は延興。もとの姓は徐氏。本貫は高平郡金郷県とされる。 == 経歴 == 一説に北魏の白水郡守の高幹(徐幹)の子として生まれたという。また一説に宦官の徐成の養子となり、若い頃は雇われ仕事をつとめたともいう。成長すると、身長は8尺あり、髭が美しく、感情を面に表さなかった。北魏の汝南王元悦が司州牧となると、その下で戸曹従事となった。528年(建義元年)、員外散騎常侍を初任とした。行台の于暉とともに羊侃を太山に攻撃し、于暉の下で行台郎中をつとめた。給事中に任じられ、高歓と深く結びついた。高歓が晋州に入ると、召し出されて治中となり、行平陽郡事をつとめた。 531年(普泰元年)、高歓が信都で起兵すると、隆之は大行台右丞となった。同年(中興元年)、御史中尉に任じられ、尚食典御を兼ねた。高歓の下で従軍して鄴を平定し、行相州事をつとめた。532年(中興2年)、韓陵の戦いに参戦した。同年(太昌元年)、驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた。ときに隆之は南陽王元宝炬と酒席で争いを起こした。高歓の計らいで隆之は北道行台として出され、并州刺史に転じ、平原郡公に封じられた。隆之は自ら700戸の減封を申し出て、自分の官位を4階下げて兄の高騰に譲ると、これを認められて、高騰は滄州刺史となった。534年(永熙3年)、高歓が斛斯椿を攻撃すると、隆之は大行台尚書となった。清河王元亶が承制すると、隆之は侍中・尚書右僕射に任じられ、御史中尉を兼ねた。多くの工人を動員して、寺塔を建造したため、高歓の叱責を受けた。 同年(天平元年)、母が死去し、服喪のために任を解かれた。ほどなく并州刺史として再び起用され、入朝して尚書右僕射となった。当時の東魏では権勢家が良い農地を占めて、零細民は痩せた土地しか耕作できなかったことから、隆之が高歓に上申して、農地の交換を進め、格差の縮小につとめた。また営構大将をつとめて、鄴都の建設を取り仕切り、南城を増築した。漳水を鄴城の近くまで引き込み、長い堤防を築いて氾濫を予防させた。542年(興和4年)、司徒に進んだ。 544年(武定2年)10月、河北括戸大使となった。11月、尚書令に任じられた。547年(武定5年)、鄴都に召還されて、領軍将軍・録尚書事に任じられた。まもなく侍中を兼ね、次いで行青州事として出向した。また召還されて、太子太師に任じられ、尚書左僕射・吏部尚書を兼ねた。この頃、隆之は賄賂を受け取っていたことから、高澄に尚書省に召し出されて厳しい叱責を受けた。高澄が死去すると、隆之は崔暹と崔季舒を排除するよう高洋に進言した。550年(武定8年)、太保に転じた。 550年(天保元年)、北斉が建国されると、爵位は平原王に進んだ。まもなく本官のまま録尚書事となり、大宗正卿・監国史を兼ねた。隆之は文宣帝(高洋)の即位前には見下した態度を取っており、即位後も東魏の旧皇族と交友していたため、文宣帝の怒りを買っていた。554年(天保5年)、文宣帝の命により隆之は壮士に100回の殴打を受けて放逐され、路上で野垂れ死んだ。享年は61。冀定瀛滄幽五州諸軍事・大将軍・太尉・太保・冀州刺史の位を追贈され、陽夏王に追封されたが、諡は得られなかった。 文宣帝の末年には、隆之の子の高徳枢ら十数人が殺害されて、かれらの遺体は漳水に投げ込まれた。また隆之の墓も暴かれて、骸骨を切り刻まれ、漳水に捨てられた。560年(乾明元年)、兄の子の高子遠が隆之の後を嗣ぎ、陽夏王に封じられて、財産も返還された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高隆之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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