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高雄海軍航空隊(たかおかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊に続く3番目の陸上攻撃機部隊として、日華事変中盤から太平洋戦争後期にかけて爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。1942年(昭和17年)10月1日に第七五三海軍航空隊(だい753かいぐんこうくうたい)と改称した。1944年(昭和19年)7月に解隊。 なお、高雄空の原隊である台湾高雄飛行場には、練成航空隊として高雄海軍航空隊(二代)と第二高雄海軍航空隊が設置されたので、本稿にて合わせて述べる。 ==沿革== かつて北海事件の際に、海軍は陸軍屏東飛行場を間借りし、日華事変勃発後の渡洋爆撃の際には台中飛行場を活用したが、台湾を基地とする陸上攻撃機隊の設置を急いだ。そこで開かれたのが第三の陸攻隊である高雄空である。開隊直後に実戦投入され、華南方面の戦略攻撃に用いられた。太平洋戦争中はもっぱら東インドネシアに常駐し、オーストラリアの要衝ダーウィンへの遠距離爆撃に従事した。本隊をラバウルに移動していない数少ない陸攻隊でもある。 *昭和12年(1937年) :12月28日 高雄海軍航空隊(仮称)設立準備委員事務所を高雄海軍通信隊内に設置〔昭和13年1月7日付 海軍公報 (部内限) 第2805号。〕。 *昭和13年(1938年) :4月1日 開隊。第二連合航空隊に編入。 :5月10日 三灶島飛行場竣工、14機で進出。 :4月27日 福州を9機で爆撃。 :6月28日 南昌攻略作戦の陽動として吉安を爆撃。 :9月13日 柳州を爆撃。 :9月17日 桂林を爆撃。 :9月28日 昆明を爆撃。 :10月14日 広東攻略作戦を支援。 *昭和14年(1939年) :6月18日 汕頭攻略作戦を支援。 *昭和15年(1940年) :1月1日 高雄に帰還。再編に従事。 :5月1日 第一連合航空隊に編入。 :11月15日 仏印進出作戦に参加、ハノイに進出。 *昭和16年(1941年) :2月28日 海南島三亜に撤退。 :4月1日 3機を抽出し、第三航空隊を新編。 :4月10日 第十一航空艦隊第二十三航空戦隊を新編。 :7月25日 一式陸上攻撃機初調達、漢口に進出。 :7月27日 成都を空襲し、一式陸攻デビュー。 :9月1日 高雄に帰還。 :12月8日 太平洋戦争勃発。ルソン島イバ飛行場を27機で爆撃。 以後、1月24日までにニコルス飛行場・イロイロ飛行場・マニラ湾停泊船舶・コレヒドール要塞を渡洋爆撃。 *昭和17年(1942年) :1月2日 南比ホロ島に進出、陸軍のバターン半島・コレヒドール島攻略を爆撃支援。 :4月3日 バターン半島総攻撃を支援。 :4月20日 ティモール島クーパン飛行場に進出。 ダーウィンへの爆撃を開始するが、連合軍の反撃によりクーパン進出を断念。 :4月25日 往路ダーウィン爆撃・復路ケンダリ撤退第一陣出撃。27日・29日の三波で撤退完遂。 :6月13日 クーパンに再進出、27日に27機でダーウィンを爆撃しケンダリに撤退。 :7月下旬 アル諸島・ケイ諸島・タニンバル諸島攻略作戦にともないクーパンに進出。 :7月25日 30日まで連日ダーウィンを爆撃。 :9月7日 陸攻18機をラバウルに派遣。 本隊はケンダリ・クーパンに残留し、哨戒に従事。 :10月1日「第七五三海軍航空隊」に改称〔昭和17年10月1日付 海軍大臣官房 官房機密第12315号。アジア歴史資料センター レファレンスコードC12070423000 で閲覧可能。〕〔昭和17年10月1日付 内令第1846号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070173000 で閲覧可能。〕。 :12月28日 ニューギニアバボ飛行場に進出。30日メラウケを爆撃し、1月1日ケンダリに帰還。 *昭和18年(1943年) :3月2日 ダーウィン爆撃を再開。 :4月24日 ケンダリにB-249機襲来、陸攻4機喪失。 :5月2日 ダーウィンに反撃爆撃。 :5月7日 バボに再進出。10月まで断続的にミリンギンビ・ブロックスクリークを爆撃。 :10月11日 イギリス東洋艦隊接近の誤報。スマトラ島サバン飛行場・パダン飛行場に哨戒隊を派遣。 :11月12日 内南洋に分遣隊進出。 *昭和19年(1944年) :1月21日 全機ケンダリ出撃、テニアン島に転進。10機をトラック諸島に派遣。 :2月17日 トラック島大空襲。トラック派遣隊全機喪失。テニアン本隊はトラックに進出。 :2月23日 マリアナ諸島大空襲。敵機動部隊の索敵に出撃。 :5月3日 「あ号作戦」発令、ハルマヘラ島ワシレ飛行場に進出。 :5月27日 「第一次渾作戦」発令、ビアク島に連日出撃。 :6月5日 「第二次渾作戦」発令、稼動機払底。 :7月10日 解隊。 内南洋の空襲を幸運にもかわした七五三空だが、ニューギニア戦線での消耗が激しく、フィリピン戦線への転進もままならない状況に陥っていた。解散後は乙飛行隊の濠北海軍航空隊地上要員に取り込まれたが、濠北空も終戦まで持たず、1945年(昭和20年)5月に解散している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高雄海軍航空隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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