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髙木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。愛知県名古屋市生まれ、岐阜県岐阜市出身。 現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、引退後はコーチ・監督を歴任した。2代目「ミスタードラゴンズ(初代は西沢道夫、3代目は立浪和義である〔2005年4月発売の中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡(ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-61324-6)には、木俣達彦について「ミスタードラゴンズの資格十分」と書かれている。また、北京オリンピック野球日本代表監督を務める以前の星野仙一を「ミスタードラゴンズ」と紹介している文献も存在する(オークラ出版「中日ドラゴンズ伝説」〈2008年4月30日出版、ISBN 4775511882 / ISBN 978-4775511886〉p.21)。〕)。2007年1月より2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長〔木俣達彦を経て2016年1月現在は鈴木孝政が務める。〕。2012年から2013年まで再び中日の監督を務めた。 == 経歴 == === プロ入りまで === 10歳のとき、中日スタジアムの火災(8月19日)に巻き込まれたが、危うく事無きを得た〔2008年12月5日放送の『いつも歓声があった ~ナゴヤ球場の60年~』(NHK名古屋・制作)に出演した際にも当時の思い出を振り返っていた。〕。 1957年、県立岐阜商業高校に進学。肩を痛め遊撃手から二塁手に転向。1年生の時に長嶋茂雄(当時立教大学4年生)にコーチを受けた〔長嶋茂雄、引退 その日のミスターと周囲の人々 〕。長嶋は髙木の才能を見抜き、監督に髙木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、髙木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となったという。なお、遊撃手だった髙木を二塁手に転向させるよう監督に提案した人も長嶋だという。 3年春には第31回選抜高等学校野球大会に出場、決勝まで進んだが、中京商業(現・中京大中京高校)に敗れ準優勝に終わる〔この試合は雨天順延で日程がずれ、皇太子(現天皇)の御成婚パレードと日程が重なり、テレビ中継されなかった。テレビ中継が始まってから現在まで春夏通じて、中継が中止された大会は後にも先にもこの大会のみである。〕。最後の夏は、県予選で敗れた。 高校3年夏の甲子園大会終了後にプロからの誘いがなく、OBの縁故を頼って高校卒業後は早稲田大学に進学する予定だったが、地元球団・中日から急遽オファーが届き入団する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高木守道」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Morimichi Takagi 」があります。 スポンサード リンク
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