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高橋 荘兵衛(たかはし そうべえ、文政9年8月1日(1826年9月2日) - 明治23年(1890年)8月21日)は、加賀藩御算用者(知行御算用者小頭並110石)。荘兵衛は通称で、諱は作善(たつおき)。東京帝国大学医科大学初代薬理学教授高橋順太郎の父。 == 経歴 == 加賀藩士・高橋貞助の嫡男として生まれる。1845年(弘化2年)4月 加賀藩御算用場に雇われて以来、幕末異国船の脅威から海防の必然性により、藩の御算用者軍艦方として加賀藩梅鉢艦隊の購入に携わる。長州征伐の際、加賀藩の艦船『発機丸』に乗船、石州浜田(島根県浜田市)に積米を裁き、京都加賀藩邸詰所(京都市中京区河原町)に在京。第2次長州征伐の際、梅鉢艦隊の指揮官大小将組頭岡田助右衛門の配下に加わり、広島、京都ならびに大阪において諸事御用御陣払いの御用を務め、1866年(慶応2年)2月金沢に帰着。1866年(慶応2年)8月、香港にて機関修理を行っていた加賀藩軍艦発機丸回収に携わり、1867年(慶応3年)2月、長崎のグラバー商会へ『発機丸』回航及び艦船購入の御内用の命を受け『李百里丸』に乗船、長崎に派遣される。同年、5月英人ガラバ(グラバー)より英船ウワエハダリヤ号(後の帆船駿相丸)を洋銀1万枚にて購入、10月ニコスボーイ号(後の帆船起業丸)などの購入に携わった。 慶応4年(1868年)正月、王政復古、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたとの報が長崎にもたらされた。それを知った長崎奉行・河津伊豆守祐邦は身辺の品を港内に停泊中のイギリス船に運び、ついで守衛の村尾氏次という者1人を伴って西役所から出て、イギリス船に乗り込んだ。その時彼は、洋服に靴を履き、ピストルをズボンに隠し持っていたという。慶応4年1月14日夜11時頃のことであった。そして、翌15日早朝、その船で長崎を脱出。 河津伊豆守は脱出の際に後事を福岡藩の聞役・粟田貢に託しており、それを受けて粟田は長崎地役人の薬師寺久左衛門、岡田吉大夫、本木昌造、尾上栄文らと協議。新政府は土佐藩の佐々木高行に命じ、在崎の海援隊士が長崎西奉行所を接収、当時長崎にいた各藩士と共に、新政府より沙汰があるか責任者が派遣されるまでは、これまで通りに諸事を取り図ると申し合わせた。 これにより、薩摩藩・長州藩・土佐藩・広島藩・大村藩・宇和島藩・対馬藩・加賀藩・柳川藩・越前藩・肥後熊本藩・福岡藩・平戸藩・五嶋藩・島原藩・小倉藩の16藩の合議による協議体が発足。この協議体は連名の誓約書を作っており、その連名者の中には土佐の佐々木高行や佐賀の大隈重信、薩摩の松方正義、加賀の高橋荘兵衛の名もある。 長崎奉行所西役所は長崎会議所と称され、1868年(慶応4年)2月15日に沢宣嘉が九州鎮撫総督兼外務事務総督に就任するまで、長崎の政務を執る事になった。荘兵衛は会議所の配下、政治裁判掛を勤める。また、治安維持には各藩兵や長崎奉行が結成した振遠隊が当たる事となった〔『「株式会社」長崎出島』P232~233、『長崎 歴史の旅』P181、『長崎県の歴史』P282~283、288~290、『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 P42、119、124。〕。 1868年(慶応4年)2月澤宣嘉九州鎮撫総督着任後、北越戦争増援輸送のため『李百里丸』に乗船、官軍掛任務を務めた。この加賀藩艦船の軍事輸送は加賀藩主命令ではなく、新政府側の要求としての任務であった。 1869年(明治2年)4月、理財局一等承事少属会計掛の任命後、1871年(明治4年)7月廃藩置県がなされ、旧藩知事前田慶寧の上京に伴い東京府神田山本町に家族と住居を移す。その後第十五国立銀行(華族銀行)の重役、金沢第十二国立銀行〔旧加賀藩の前田家が7割を出資した士族中心の資本、明治19年開設〕の副頭取を務める。 1890年(明治23年)8月21日没、享年64。墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋荘兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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