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田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2000年10月22日)は日本の作曲家。自作を中心に指揮者としても活躍した。 名字は「高田」ではなく「(いわゆるハシゴ高)田」が正式な表記である。 == 生涯 == 愛知県名古屋市に生まれる。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)師範科で呉泰次郎に和声法を師事。次いで東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業し、さらに同校研究科作曲部、同校聴講科指揮部で学んだ。この間に信時潔、クラウス・プリングスハイム、ヘルムート・フェルマー、マンフレート・グルリットらに作曲を、福井直俊にピアノを師事〔。この頃の作品として、管弦楽曲「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ」(1941年。後、「山形民謡によるバラード」と改題)や、歌曲「風のうたった歌」(1942年)がある。この2曲はほどなくして出版され、今日までしばしば再演される作品となった。また、副科でホルンを習得し、1940年の紀元二千六百年奉祝管弦楽団にはホルン奏者としてくわわっている。 1948年に平尾貴四男、安部幸明、貴島清彦とともに作曲団体「地人会」を結成。西洋および日本の音楽の伝統を尊重しつつも、安易に「輸出用音楽や虚偽の民族性」(田三郎「地人会はどう進んできたか」『音楽芸術』1953年4月号による。ここでは外国人受けや、民族主義の高揚を軽々しく狙った作品を指すのだろう)によりかからない態度を表明した。この会の活動は1955年まで続き、高田はここで「ヴァイオリンとピアノのための奏鳴曲」や「チェロとピアノのための小奏鳴曲」などを発表する。同年(1955年)、詩人と作曲家、声楽家による団体「蜂の会」の結成に参加した。ここで初演されたものに男声合唱組曲「海」などがある。この頃を境に声楽、特に合唱作品へ力を注ぐようになった。 NHKから芸術祭のために合唱曲を委嘱されたことを機に詩人高野喜久雄と出会った彼は、その委嘱作品「わたしの願い」(1961年)を皮切りに、合唱組曲「水のいのち」(1964年)、「ひたすらな道」(1976年)、「内なる遠さ」(1978年)、「確かなものを」(1987年)、歌曲集「ひとりの対話」(1965年 - 1971年)を作曲した。とりわけ「水のいのち」は、混声版、女声版、男声版合わせて200刷を突破するほどに多くの人に歌われ、今日にいたるまで日本における合唱楽譜の売上の上位にい続けている。 一方、指揮では戦後しばらくまで放送などで活動していたものの、やがて自作のみに限定。録音や合唱団の客演指揮で活躍した。厳しい指導で知られていたが、その演奏に対しては「日本の合唱曲の演奏はすべて自分が一番よい」とする木下保が、「田三郎の曲だけは、彼が自分でやった方がいい」と述べたというエピソードがある。田の指導を受けた合唱指揮者は数多く、さまざまなかたちで彼の作品演奏に尽力した。1993年から彼の作品個展演奏会「リヒト・クライス」の主宰にあたっている鈴木茂明、男声合唱版のない合唱曲について、それへの編曲を行った須賀敬一や今井邦男、「田三郎合唱作品全集」をスタートさせた辻正行などが挙げられる。これら弟子によってアレンジされた男声合唱版は、指導にもあたっていた東海メールクワィアーの男声合唱版制作シリーズによって開花し、2006年10月8日に大分IICHIKO芸術文化センターで行われた第17回日本男声合唱協会演奏会にて「心の四季」が320人により演奏された。指揮は須賀敬一。 最晩年まで作曲、指揮活動を続け、室内楽曲「五つの民族旋律」(1977年)の管弦楽編曲の完成を前に死去。トーマス・マイヤー=フィービッヒが残りを完成させた。遺作は「神のみわざがこの人に」である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高田三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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