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鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は広島市西区天満町出身の元サッカー選手、サッカー指導者〔鬼武健二チェアマンのコラム5 夕暮れの缶けり 〕。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)専務理事、同第3代目理事長(Jリーグチェアマン)。 ヤンマーディーゼルサッカー部の攻撃サッカーを築いた名将で、日本サッカーリーグ(JSL)で通算93勝を挙げたJSL最多勝監督〔No.316 鬼武健二 個性の攻撃サッカー30年の夢 | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト 〕〔親分肌でカープファン Jリーグ第3代チェアマン・鬼武健二さん (06年7月23日付中国新聞)〕。 また、セレッソ大阪の創設、Jリーグ入りを総責任者として尽力した〔〔『日刊工業新聞』1992年11月14日3面〕。 == 来歴 == 現役時代は162センチの俊足フォワードとして活躍、主にウィンガーとしてプレーした。広島大学付属高等学校時代の同級生は高重清純、一つ下は丹羽洋介、2つ下は桑田隆幸、野村尊敬(ちなみに鬼武をサッカー部へ誘ったのが高重と野村)。早稲田大学の1つ下に丹羽、2つ下に桑田、野村、松本育夫。1962年同大卒業後ヤンマーディーゼルに入社。同社サッカー部に加入し、1965年設立の日本サッカーリーグ(JSL)でもプレーする。ちなみにJSL退場者1号である。 1967年には28歳にしてヤンマーの監督に就任。釜本邦茂、ネルソン吉村、湯口栄蔵ら、若い力を結集させて1968年、1970年、1974年の3度にわたりヤンマーを天皇杯優勝に導き、また1971年、1974年、1975年にはJSLで優勝するなど、ヤンマー黄金期を築いた〔〔。 鬼武が監督に就任してヤンマーは、毎日午後から仕事をしないで練習をするようになった〔『「ダイヤモンドサッカー」の時代』JDFA(ジャパン・ダイヤモンド・フットボール・アソシエーション)編、エクスナレッジ、2008年、175-176、215頁〕。それまで他の実業団は休日練習の他は、平日週二日程度の練習であったため、ヤンマーが強くなって他の会社も同じように平日も練習するようになった、結果的に日本サッカーのレベル向上にも貢献している〔。 1977年、監督を退任。 社業では船舶事業部次長のち1988年マリンレジャー営業部長、1989年、ヤンマーマリナックス社長。 1992年、ヤンマーサッカー部の選手・監督としての経験が買われ〔Jリーグ入りを目指すヤンマーサッカー部のサッカープロ化推進室長兼サッカー部長に就任して総責任者として指揮を執る〔。資金面の不足から日本ハムなどに協力を受けて1993年「大阪サッカークラブ(ヤンマーサッカー部を母体としたJリーグクラブセレッソ大阪の運営会社)」を設立して社長に就任、セレッソ大阪のJリーグ加盟、昇格に尽力した〔〔〔鬼武前会長Jリーグ専務理事就任のお知らせ | セレッソ大阪 CEREZO OSAKA OFFICIAL SITE 〕。2000年に社長職を退いて会長となった。 社長時代から理事としてJリーグ運営にも参画し、2004年に会長を引退した後にJリーグ専務理事に就任。2006年7月より、退任する鈴木昌の後任として、Jリーグのチェアマンとなった。15歳以下の年代では下級生に当たる14歳、13歳の選手が活躍できない状況にあるとして、「Jリーグ U-14」および「Jリーグ U-13」を本人曰く「強引に〔」発足させた。また、統括は難しくなるが、Jリーグクラブが各都道府県に2つずつ在ることが理想である〔として拡大路線(日本プロサッカーリーグ#沿革を参照)の継続を進めた。 2010年6月、任期満了によりJリーグ イレブンミリオン プロジェクトの達成を見る前にチェアマンを退任。2010年6月、日本サッカー協会名誉副会長に就任。2011年4月より大阪府サッカー協会会長に就任。 2015年、第12回日本サッカー殿堂入り〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鬼武健二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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