|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 鬼 : [おに] 【名詞】 1. ogre 2. demon 3. it (i.e. in a game of tag) ・ 頭 : [あたま, とう] 【名詞】 1. counter for large animals ・ 政 : [せい, まつりごと] 【名詞】 1. rule 2. government ・ 一 : [いち] 1. (num) one
鬼頭 政一(きとう まさいち、1920年2月9日 - 2008年11月4日)は、元プロ野球選手(内野手、外野手 入団時は投手)・コーチ・監督。 同じくプロ野球選手だった南海の鬼頭数雄は実兄、近畿日本の鬼頭勝治は実弟。 == 来歴・人物 == 旧制日大三中卒業後、1940年に名古屋軍へ入団。その年のシーズン途中に兄・数雄の在籍していたライオン軍に移籍し、1942年まで在籍する(数雄は1941年に南海へ移籍)。その後は八幡製鐵所でプレーしていたが、1950年に西鉄クリッパースでプロ球界へ復帰、1952年には近鉄パールスに移籍。その年に打率がリーグ4位を記録。1958年に引退。 引退後はアマチュア球界に転じて、日南高校、三菱化成、柳川商業高校で監督を歴任。1968年に西鉄のコーチとしてプロ球界に復帰し、翌1969年途中からは黒い霧事件の責任を取って引退・辞任した中西太の後を受けて代理監督を務めた(対戦成績14勝7敗)。その後も1974年までコーチを務めた。 1976年、太平洋クラブライオンズの監督に就任。もともと、フロントはレオ・ドローチャーを招聘する予定が、種々の事情で来日しなくなり、急きょヘッドコーチだった鬼頭に要請され、引き受けることになった。球団名が「クラウンライターライオンズ」となった1977年に退任。2年連続最下位に終わったが、真弓明信・吉岡悟・鈴木治彦・若菜嘉晴・大田卓司・山村善則を積極的に起用。土井正博・白仁天・竹之内雅史・基満男らベテラン選手と対立しながらも、「走る野球」で若返りを断行していった。 クラウン監督辞任後は、太宰府市に在住。球界の表舞台に登場することはなかったが、1985年まで九州朝日放送・NHK福岡放送局の解説者として活躍。2001年より長男の母校である九州大学野球部のテクニカルアドバイザーを引き受け、地元の大学野球界の発展にも尽力した。 2008年11月4日、肝臓癌のため死去。享年88。 ==詳細情報== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鬼頭政一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|