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魁皇 博之(かいおう ひろゆき、1972年(昭和47年)7月24日 - )は、福岡県直方市出身で友綱部屋所属の元大相撲力士。本名は古賀博之(こが ひろゆき)、愛称はキンタ、ゴリライモ〔朝乃若が呼び始めたあだ名。〕。身長185cm、体重175kg、血液型はA型。得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ。最高位は東大関。現在は年寄・浅香山を名乗り、浅香山部屋師匠である。好物はステーキ。〔福岡県民栄誉賞・直方特別市民文化栄誉賞の授賞式(後述)に出席するべく2011年8月に地元の直方市へ帰郷した際市内の企業である明治屋産業を訪れ、その明治屋産業が展開する事業「びっくり市」で販売される「レンガステーキ」4kgを軽々平らげた。〕嫌いなものは炭酸飲料。 == 来歴 == === 相撲界入門 === 小学生のとき町内で行なわれた相撲大会に父親から出るように言われて出場したことで相撲へのかかわりを持つようになり、市立直方第二中学校時代に柔道をしていたところその巨体から、顧問の教師に相撲を勧められる。その魁皇のためにわざわざ「柔道・相撲部」を作った(それまでは柔道部のみだった)。またその顧問の教師と相撲を取ったところ、教師は片手で体を持ち上げられ非常に驚かされたという。またその相撲部時代にはほかの生徒たちが飲んだスチール缶の空き缶を片手で潰して片づけていた。中学生になっても町内の相撲大会には出場していたが、実力的にはまだまだ取り立てて強かったわけでもなく相撲を取るのが楽しかったという思い出もなかった。入門前の魁皇は自転車を好んでいたため競輪選手になりたいと考えていた。〔がんばったぶんだけ成長1〜浅香山博之 PHP人材開発 2013年1月11日更新〕入幕前、水道の蛇口が硬くて廻らない(魁皇自身寒い冬場で蛇口が凍っていたとの事)のを無理に回そうとした所、怪力のあまり壊してしまったことがある。入門前は、元大関北天佑の大ファンだったと言われている〔「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」 〕。北天佑も魁皇も、共に、上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。 中学時代のあるときに友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、その時勧誘されたことで中学校卒業後に友綱部屋に入門し、1988年(昭和63年)3月場所で初土俵を踏んだ。同期には大海(後に64代横綱・曙、現プロレスラー)、貴花田(後に65代横綱・貴乃花、現貴乃花親方)、若花田(後に66代横綱・3代若乃花、現タレント)、和歌乃山(後に小結)、力櫻(後に幕内、プロレスラー)など有望な新弟子がおり、「花の六三組」とも称された。ちなみに貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった。 初めて番付に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく〔その後も、序二段、三段目、幕下、十両、幕内のデビュー場所はすべて負け越している。〕、相撲嫌い〔自著『嫌いなことでも好きになれる。』によると「内臓検査で不合格になれば地元に戻れるだろう」とまで祈るほど入門を嫌がっていたという。〕と慣れない上京生活に苦しみ入門半年後に脱走を試みたが脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る決心をした。その後、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、初土俵から4年足らずの1991年(平成3年)九州場所で5勝2敗と大勝ちした。この場所では当初から十両昇進を期待されており、勝ち越しを決めた日には幕下上位の結果紹介において『幕下19歳古賀勝ち越しました!』とアナウンスされ祝福された。1992年(平成4年)初場所で十両昇進、親方の「頂点を極めてほしい」との希望から四股名を「魁皇」と改名〔但し、角界入門時の発表では郷土の名山・福智山にちなんで「福智山」という四股名を名乗る予定であった。1988年(昭和63年)2月29日付西日本新聞(筑豊版)より。〕。1993年(平成5年)5月場所、20歳の若年での新入幕を果たし、若手の有望株として注目を集めるようになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「魁皇博之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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