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魏該[がい] 魏該(ぎ がい、生年不詳 - 328年)は、中国の晋代の軍人。またの名を亥といった。本貫は東郡東阿県。魏浚の族子。 == 経歴 == はじめ京兆郡陰般県に居住していた。301年(永寧元年)、河間王司馬顒が趙王司馬倫を討つにあたって、魏該は将兵都尉をつとめた。311年(永嘉5年)、漢の劉曜が洛陽を攻撃すると、魏該は王浚に従って救援に赴き、先に兵を率いて金墉城を守備した。劉曜が懐帝を連行して引き揚げると、魏該は洛陽に取り残された人々を保護した。 ときに杜預の子の杜尹が弘農郡太守として、宜陽の境界の一泉塢に駐屯していたが、たびたび漢軍の攻撃を受けていた。そこで魏該は部将の馬瞻に300人を与えて杜尹の救援に向かわせた。しかし馬瞻は杜尹が油断しきっているのを知ると、夜襲して杜尹を殺害し、魏該を迎えて塢に拠らせた。塢の人々は恐れて、魏該に服従した。魏該は李炬や郭黙らと結んで漢軍に抵抗した。荀藩は魏該を武威将軍に任じ、城西の雍州や涼州出身者たちを統率させ、劉曜を攻撃させた。317年(建武元年)、琅邪王司馬睿が晋王を称して承制すると、魏該は冠軍将軍・河東郡太守の任を加えられ、河東河南平陽三郡の督護をつとめた。 漢の劉曜が李矩を攻撃すると、魏該は漢軍を撃破した。李矩が郭黙を迎えようとすると、魏該は軍を派遣してこれを助けさせた。また河南尹の任愔と結んだ。後に魏該の兵は飢え疲れ、劉曜による圧迫が日増しに強まると、魏該は兵を率いて南遷しようと望んだ。しかし部下の兵たちが従わなかったため、魏該は単騎で南陽に逃れた。魏該は元帝(司馬睿)により前鋒都督・平北将軍・雍州刺史に任じられた。馬瞻が魏該の元部下たちを率いて劉曜に降った。劉曜の徴発は厳しく、馬瞻もまた傲慢で暴虐だったため、部下の兵たちは使者を出して魏該と連絡し、馬瞻を殺害して魏該の指揮を再び受け入れた。魏該は兵を率いて新野に移り、周訪を助けて杜曾の乱を鎮圧した。魏該は順陽郡太守に任じられた。 322年(永昌元年)、王敦が反乱を起こしたとき、梁州刺史の甘卓は従わなかったが、魏該の去就を見ようと、王敦の味方のような振りをして、魏該を試した。魏該は王敦の挙兵に従わないことを明らかにして、甘卓を相手にしなかった。326年(咸和元年)、前趙の将軍の黄秀と帛成が酇城を攻撃してくると、魏該は襄陽に逃れた。327年(咸和2年)、蘇峻が反乱を起こすと、魏該は建康を救援するために兵を発した。328年(咸和3年)、石頭城に進軍し、陶侃の指揮命令を受けた。しかし魏該は病が重くなり、襄陽に帰ることとした。6月、道中に死去した。武陵に葬られた。甥の魏雄が部衆を引き継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「魏該」の詳細全文を読む
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