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魚住 昭(うおずみ あきら、1951年 - )は、日本のフリージャーナリスト。ノンフィクション作家。熊本県出身。 == 人物 == 熊本県八代郡鏡町(現・八代市)出身。熊本県立熊本高等学校を経て、一橋大学法学部に入学。大学では卒業論文を提出せずに1年間留年し、読書とパチンコをして日々を過ごした。大学前期クラスでの同級生に鈴木和宏(検察官、元福岡高等検察庁検事長)や藤巻健史(為替トレーダー、参議院議員)などがいる〔「3月29日(土)」 藤巻プロパガンダ〕。 もう1年留年しようと考えていたところ、1975年1月ごろに大学の掲示板で共同通信社の臨時記者募集の知らせをみつけた。大学の1年上の先輩から、共同通信は働かなくても給料をくれるいい会社だと聞いており、優秀な学生は既に内定先を得ていた時期の臨時募集だったために競争率も低いと考え応募。2月に採用試験に合格。同年、一橋大学法学部を卒業し、共同通信社に入社。卒業論文は卒業後に提出した〔魚住昭『官僚とメディア』(角川書店)〕。 立川支局にて新人記者を務めたのち、岡山支局にて3年間、大阪支社社会部にて6年間、東京本社社会部にて10年間、司法記者として東京地検特捜部、リクルート事件などを取材。しかし1980年代後半に共同通信社の社風が変わって経営効率重視となり、風通しが悪くなるとともに仕事量が増えた。権力におもねるようになった会社上層部に記事がつぶされることが何度もあって馬鹿らしくなり、たまっていた年次有給休暇を使い、テニスクラブやパチンコに通い会社には週に1、2度顔を出すだけの状態となった。 1993年ごろから、自分の興味の持てるテーマを選んで仕事に復帰。1994年に共同通信・戦後50年企画として、人員、取材費、テーマのいっさいを任されたため、瀬島龍三をテーマに70回の長期連載を手がける。 1996年5月に、年功序列により京都支局デスクに異動。しかしこの頃、単行本化を進めていた瀬島龍三の記事について、上層部から記事の渡邉恒雄に関する部分を削除するように求められたのに反発。また京都支局では、東京本社や大阪支社の方針と何度も対立を繰り返す。結局、自分で取材をして記事を書きたいとの思いが強くなり、1996年8月に退社。東京に戻り、フリーライターとなり、渡邉恒雄の評伝取材を開始〔魚住昭『官僚とメディア』(角川書店)〕。 同年、共同通信の社会部のチームで書いた『沈黙のファイル -「瀬島龍三」とは何だったのか- 』により日本推理作家協会賞受賞。 1999年から『月刊現代』にて渡邉恒雄の評伝の連載を開始。 2004年、『野中広務 差別と権力』により講談社ノンフィクション賞受賞。 2006年より、佐藤優、宮崎学らとメディア勉強会「フォーラム神保町」を運営。 2010年1月18日、フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に、青木理、大谷昭宏、岡田基志、木村三浩、郷原信郎、佐藤優、鈴木宗男、田原総一朗、平野貞夫、宮崎学らとともに参加した〔フォーラム神保町=「『新選組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」~1.18緊急シンポジウム開催~= 〕。 河野一郎、中曽根康弘といった自民党でも右派とされる有力政治家と密接な関係にありながら、ソ連と直通のパイプを持っていた元テレビ朝日専務取締役三浦甲子二について、『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社、2000年)で事実関係を歪めた批判をしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「魚住昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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