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魚崎(うおざき)は神戸市東灘区の地名で、住吉川河口両岸から天上川右岸、北限を国道2号とする範囲。元・武庫郡魚崎町であったのが昭和25年(1950年)に神戸市に編入された。町名では魚崎南町、魚崎中町、魚崎北町、魚崎西町、魚崎浜町の各全域と甲南町の西部(中学校区基準では4丁目と5丁目。旧町域は4・5丁目の南半分と3丁目の南西半分)に相当。 海岸はかつて“雀の松原”として古くから知られた景勝地であった。江戸時代中期より酒造と素麺製造が盛え、特に酒造では醸造時の温度調節に「ぎり酛」という手法を発明して味を向上させ、灘五郷のうちの一つ魚崎郷(東郷)の中心地となった。阪神電鉄開通後は邸宅地となるも、神戸大空襲により焦土と化し、屋敷の跡にはマンションが進出し、工業中心の復興計画で海岸は埋め立てられ、以前の面影は失われた。 ==由来== 住吉川の西の地は900年頃「佐才郷」として集落を作っていたが(『新撰姓氏録』)、洪水により川東へ移り、今の魚崎となったという〔『魚崎町誌』〕。 古くは五百崎(いおざき、旧仮名遣:いほざき)と呼ばれ、大阪湾にせり出た住吉川扇状地の先端・河口部にあった岬である。俗に「与佐喜」(『摂陽群談』)、「伊與佐喜」〔とも呼ばれた。 五百崎の名前のおこりは神話時代に遡り、確実なものではない。『日本書紀』巻十に応神天皇31年(300年?)に伊豆国から献納された枯野という船が老朽化したのでこれを薪として塩を焼いたところ500籠の塩ができ、諸国に配る代わりに船を造るよう命じたところ、500隻の船が一挙に武庫の水門(みなと)に集まったとあり、この話をもとにして五百崎の名がついたという。また、一説には神功皇后征韓の際、諸国に命じて船を作らせ、武庫の水門に500隻が集まったからだともいう。 『西摂大観』には、この付会説の他、このあたりが漁業を行った所から、魚の集う崎=魚崎というようになったのであろうとある。 魚崎は魚崎と横屋の2つの村が明治22年(1889年)の町村制施行の際に魚崎村となったものである。横屋とは「神主」を意味する言葉であり、五百崎八幡(魚崎横屋八幡神社)との関係が示唆される〔『新 神戸の町名』〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「魚崎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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