翻訳と辞書
Words near each other
・ 魚津システム
・ 魚津テクノスポーツドーム
・ 魚津バイパス
・ 魚津交通
・ 魚津区検察庁
・ 魚津合同庁舎
・ 魚津国際カントリークラブ
・ 魚津埋没林
・ 魚津埋没林博物館
・ 魚津城
魚津城の戦い
・ 魚津大火
・ 魚津大町
・ 魚津対徳島商延長18回引き分け再試合
・ 魚津尋常高等小学校
・ 魚津工業高校
・ 魚津工業高等学校
・ 魚津市
・ 魚津市役所
・ 魚津市桃山運動公園


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

魚津城の戦い : ミニ英和和英辞書
魚津城の戦い[うおづじょうのたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

魚津城の戦い : ウィキペディア日本語版
魚津城の戦い[うおづじょうのたたかい]

魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)は、天正10年(1582年)に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。上杉家(米沢藩)中条家文書・魚津在城衆12名連署書状を根拠とする〔『信長公記』には一切記述がないが、他にも信長公記には越後との直接的な争乱に関する記述は採られていない。〕 。
== 開戦までの経緯 ==
上杉氏織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正4年(1576年)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。天正6年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。
謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正9年(1581年)に起こった荒川の合戦以後は、事実上、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。
天正10年(1582年)2月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年3月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正10年(1582年)3月11日に柴田勝家・佐々成政前田利家佐久間盛政は魚津攻めを中止し富山城を攻めさせ奪還した。その後4万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も3800ともいう兵を挙げ立てこもった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「魚津城の戦い」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.