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鮎川 誠(あゆかわ まこと、1948年5月2日 - )は、日本のギタリスト、作曲家、俳優。ロックバンド「シーナ&ザ・ロケッツ」のリーダー。1970年代、福岡市を中心に勃興した、いわゆるめんたいロックの草分けの一人である。福岡県久留米市出身。血液型はA型。身長180cm。 トレードマークの黒縁眼鏡は、ピーター&ゴードンのピーター・アッシャーの影響による。 == 経歴 == 1948年、福岡県久留米市に生まれる。父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフ。父はアメリカ軍の軍人だが、会った記憶はない〔『AERA』1996年6月3日号 〕。母親は料亭の仲居で、のちに久留米市高牟礼会館で住み込みの管理人を務めた〔NHK九州沖縄スペシャル「ただいま!〜鮎川誠 還暦ロックンローラーふるさとへ〜」2008年4月13日。〕。父が転任するとき母は誠と共に日本に残ることを選んだため双方は離れ離れになったが、誠は懸命にローマ字を覚えて父に手紙を書き送り、父からローマ字でしたためた日本語の返事を受け取るなど連絡は相互に続いていた。しかし誠が中学生の時、父の訃報を伝えられた。父が家に残したフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードが誠のアメリカとの最初の出会いだったことから、彼は後年「僕らのロックへの思いって、個人的なイマジネーションの問題なんですよ」と語っている。「進駐軍」「あいのこ」などと呼ばれて差別を受け、母が紙芝居屋に抗議したこともある〔。8歳まで母とともに高牟礼会館で暮らした〔。 小学校5年生の時、誕生日のプレゼントとして母からガットギターを贈られ、「シューベルトの子守唄」や「トム・ドゥーリー」を練習。小学校高学年の頃、久留米の「小川レコード店」の試聴コーナーに入りびたり、レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ (なんと言ったら)」を、続けて「ベスト・オブ・レイ・チャールズ」を買う。さらにエルヴィス・プレスリーの「監獄ロック」「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」などシングル盤を買う。 中学時代はロックの他、野球、バイク、プラモデル、山歩き、魚釣りなどに熱中。中学2年生の時、リトル・リチャードに夢中になる。1964年1月頃、中学3年の時、隣席の生徒が弁当を包んできた新聞を見てビートルズの名前を知る。高校受験勉強中のFENでビートルズの音楽に接し、1964年、久留米の名門・福岡県立明善高等学校に入学。同年、ローリング・ストーンズを知る。高校在学中に友人からマディ・ウォーターズなどブルースのレコードを借りて聴いた事や、KBCラジオの当時の人気番組「ヤング・ポップス」の影響で洋楽に興味を持つ。高校時代は、部室にレコードプレイヤーがあるというだけの理由で新聞部に在籍。部室に友人のギターやアンプを持ち込んで「ジェニ・ジェニ」「ルシール」「カンサス・シティ」などを練習していた。1965年冬、修学旅行に行く代わりに、その費用を払い戻させて、友人からエレクトリックギター(テスコのセミアコ)を4500円で購入。 1966年、ビートルズ武道館公演に刺激されてアマチュアバンド「ザ・スランパーズ」で活動を始め、ローリング・ストーンズやビートルズ、ヤードバーズをコピー、久留米で一度だけライブを開く。親の反対にあったが、九州大学への進学を条件に許され、現役で九州大学経済学部を受験するもロックに熱中しすぎたために失敗。大学入学後のバンド活動を目的に福岡市の水城学園予備校で1年間必死に勉強し、1968年九州大学農学部に入学。同時期、浪人時代に知遇を得たバンド「ジ・アタック」に加入。家庭が貧しかったため、奨学金を貰って大学に通いつつ、福岡市内のダンスホールでハコバン(専属バンド)生活を送る。この当時は、主にフォー・トップスやテンプテーションズなどのモータウンナンバーや、ウィルソン・ピケット、ソロモン・バーク、オーティス・レディング、ジェームス・ブラウン、ブッカー・T&ザ・MG'sなどのスタックスナンバーを演奏していた。音楽活動の傍ら、生活のためモデルの仕事をしていた時期もある。1970年、ジ・アタックのギタリストだった篠山哲雄や、バンド活動を通して知り合った柴山俊之らとサンハウスを結成。1974年、九州大学農学部農政経済学科を卒業。同年、郡山ワンステップ・フェスティバルにてジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドと共演。 1975年にメジャーデビューを果たし、リードギタリスト兼作曲家として、ボーカル兼ソングライターの「菊」こと柴山とともにバンドの顔となった。 1978年の解散後、妻シーナの父に励まされて夫婦で上京し、シーナ&ザ・ロケッツ結成。1978年、エルヴィス・コステロの来日公演のオープニング・アクト(名目上・看板では対バンと明記)を福岡・大阪・東京で務めたとき、東京初日のステージで高橋幸宏から注目され、YMOのライブ・セッション(2度目の六本木ピットインでのライブ)に参加。その後、YMOの1980年のツアーに参加。ゲストでギターとして、神戸、福岡と武道館のステージを務める。 数々の大手CM、映画、テレビドラマにも出演。渋谷エフエムにてBLUESVILL SHIBUYAのラジオ・パーソナリティをシーナと2001年から2013年まで12年間以上務めた他、「MONO」「ローリング・ストーンズが大好きな僕たち」「DOS/Vブルース」「200CDロックンロール」「’60s自伝」等、執筆した著作も数多い。 2013年でシーナ&ザ・ロケッツ結成35周年を迎えるも、1978年結成当初よりバンド活動には一切のブランクがなく、日々積極的に全国各地でライブ・ツアーを行っている。日本国内では、トップクラスのロック・バンドとして今日に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鮎川誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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