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ブルハン・シャヒディ(; 英語: Burhan Shahidi; 、1894年10月3日(清光緒20年9月5日) - 1989年8月27日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家。ウイグル族。中華民国最後の新疆省政府主席であり、中華人民共和国でも建国直後に新疆省人民政府主席を数年間務めた人物でもある。字は寿亭。祖籍は新疆省アクスだが、両親が亡命した先のロシア帝国カザン省に生まれた。中国語表記としては他に鮑爾漢·沙赫徳拉〔劉国銘主編(2005)、2343頁。〕など、日本語表記としてはブルハン・アル・シャヒディなどもある。 == 事績 == === 中華民国での活動 === 出生地のカザン省の学校に通った後に書店店員として働き、この間にロシア語を学んだ。後にドイツ語やトルコ語も習得している。1912年(民国元年)にブルハン・シャヒディは新疆省に戻り、1914年(民国3年)に中国国籍を回復した。1922年(民国11年)、迪化市(現在のウルムチ市)に移り、省税関関税委員や迪化市自動車局(原文「汽車局」)局長を務める。1929年(民国18年)に金樹仁が新疆省政府主席となると、ブルハンはその民族差別的政策を嫌悪してドイツへ留学、翌年にベルリン大学に入学した。1933年(民国22年)1月に帰国し、金失脚後の同年6月に阿山宣慰使に任命されている。〔徐主編(2007)、2637頁。〕〔 1934年(民国23年)、ブルハン・シャヒディは新疆省の最高実力者である盛世才が組織した反帝会や民衆連合会に加入した。ブルハンは反帝会で民衆部副部長、民衆連合会で委員長代理を務めたこともある。1937年(民国26年)3月、ザイサン領事館(現カザフスタン)領事代理に任ぜられた。しかし1938年(民国27年)3月、ブルハンは盛の命令で逮捕され、1944年(民国33年)に盛が新疆を追われるまで監禁されている。釈放後のブルハンは新たに省政府主席となった呉忠信から新疆省民政庁副庁長に任命され、さらに迪化行政督察専員に移った。〔〔 1946年(民国35年)6月、呉忠信の後任省政府主席となっていた張治中は、アフメトジャン・カスィミら三区革命派(記事東トルキスタン共和国参照)を取り込む形で新疆省連合政府を樹立した。ブルハン・シャヒディはこの時に連合政府副主席に起用され、さらに新疆学院院長も兼任した。翌1947年(民国36年)7月、ブルハンはアフメトジャンに副主席の地位を譲り、南京に移って国民政府委員に就任している。1948年(民国37年)5月、制憲国民大会閉会後に、総統府顧問に任ぜられ、新疆に戻った。同年末に、三区革命派離脱、連合政府崩壊などで新疆省の混乱を収めることができなかった省政府主席マスード・サブリが辞任、ブルハンが後任の主席となる。しかしブルハンにも事態収拾の術は無く、1949年9月26日に起義(反中国国民党蜂起)を行って中華人民共和国側に転じた。同年中に中国共産党に入党している。〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブルハン・シャヒディ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Burhan Shahidi 」があります。 スポンサード リンク
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