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鮭延 秀綱(さけのべ ひでつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の武将。佐々木貞綱の子。典膳、越前守を称する。 == 生涯 == 出羽国の豪族・佐々木貞綱の子として誕生。 鮭延氏は、宇多天皇の子・敦実親王を祖とする近江源氏佐々木氏の一族。二十代綱村のとき出羽国に下り、横手城主小野寺氏に仕えた。その後、佐々木氏は最上地方に下り、永禄6年(1563年)に父・貞綱の時に庄内の大宝寺氏(武藤氏)の侵攻に敗れ、鮭川のほとりの真室内町に退き、居城の地名である鮭延を名字とした。なお、このころ幼少だった秀綱は一時大宝寺氏に捕らわれ庄内に連れ去られ小姓として仕えている。 その後、鮭延城主となるが、天正9年(1581年)に最上義光の軍勢の侵攻を受け抵抗を試みるものの、攻め手の氏家守棟の調略により内部の切り崩しを受けたため降伏、本領を安堵された(一時武藤氏を頼って脱出し、義光の庄内攻めの際に旧領復帰を条件として内応したとする説もある)。以後は最上氏に仕え、最上領北方の守護として旧主・小野寺氏を相手に和戦両面で活躍、文禄4年(1595年)には楯岡満茂の先鋒として湯沢城攻略に貢献するなどした。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに呼応して直江兼続率いる上杉軍が、最上氏の長谷堂城を包囲する(慶長出羽合戦)。秀綱は副将格として長谷堂城に派遣され、城主の志村光安を助け、楯岡光直や清水義親らと共にこれを救援した。秀綱は部隊を率いて上杉本陣に迫るなどの奮戦ぶりを見せ、『永慶軍記』には、直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたとある。戦後に最上氏が出羽山形57万石に封じられると、秀綱には真室城11,500石が与えられた。 元和3年(1617年)、年少の最上義俊が最上家の家督を継いだことに反対し、秀綱は義光の四男・山野辺義忠を擁立したため、家臣団は分裂して対立した。このお家騒動(最上騒動)が理由で元和8年(1622年)、最上氏は近江大森1万石に改易された。秀綱も佐倉藩主・土井利勝のもとに預かりとなったが、後に最上騒動の不始末を許されてからは土井氏に仕えた。このとき、与えられた知行5千石を山形以来の家臣に全て分け与え、自身は家臣の下を転々として暮らしたともいわれている。 寛永10年(1633年)4月の土井家転封に伴って古河に移り、正保3年(1646年)、当地にて死去。遺徳を偲んだ家臣たちによって鮭延寺(茨城県古河市)が建立され、弔われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鮭延秀綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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