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鯨岡氏(くじらおかし)は、日本の武家の氏族。 本姓は平氏。家系は桓武平氏の流れを汲む戦国大名で磐城分郡守護職 岩城氏の庶流。陸奥国磐城郡鯨岡邑発祥〔秋田県公文書館編『系図目録II』(秋田県公文書館、2002年)〕。岩城四十八館のひとつ、鯨岡館主〔鯨岡館は現在の福島県いわき市平鯨岡字表門の付近である。〕。 『磐城系図』には富田師行の子 基忠にはじまると書かれ、また、『中興系図』には「鯨岡、平、本国陸奥岩城郡、孫太郎行隆これを称する」とある〔杉本文彦編『日本の姓氏 大総鑑』(日正出版、1997年)492頁。〕。 == 鯨岡氏の歴史 == 鯨岡氏が歴史上登場するのは南北朝時代以降である。建武2年(1335年)7月27日、下野国にて北朝方の茂木知貞が南朝方についた本家筋 宇都宮公綱と闘うと、同じく北朝方であった岩城氏の援軍として鯨岡氏が派遣されているという。しかし、その後、延元元年(1336年)、足利尊氏が陸奥国に有力な足利一門である斯波家長を陸奥守兼奥州総大将として派遣すると、岩城氏をはじめとする、伊賀氏、石川氏ら南奥の国人たちは北朝方についたのに対して、岩城氏の支族 鯨岡乗隆・隆行親子が南朝方の北畠顕家についた。これに対して、足利方の旗頭である斯波氏は付近の国人に命じて鯨岡氏の居城・湯本城の攻撃させたとされる。 同じく南奥州の南朝方であった白河の結城親朝は同族菊田庄司、小山朝郷とともに、鯨岡乗隆を援けるという。しかし、延元2年(1337年)正月10日、戦闘が開始された。鯨岡乗隆軍、国魂行泰軍合わせて2000騎、小山軍800騎合わせて2800騎に対し、北朝軍は4000騎と優勢であり、なおかつ本家筋の岩城朝義、岩城常朝をはじめ、伊賀盛光、石川氏ら周辺の国人の大軍を前に敗退していったという。 なお、同時代、鯨岡氏は常陸国内にも所領があったとみられ、南北朝時代の武将として常陸国の鯨岡城主 鯨岡忠幹の名もみえる。その後、鯨岡氏は岩城氏の家臣として復帰するものの岩城氏が佐竹氏の配下となると佐竹氏の家臣となった。 ちなみに佐竹家臣としての鯨岡氏としては『慶長国替記』に鯨岡仁左衛門、鯨岡兵四郎、『秋田近世前期人名辞典』には鯨岡監物らの名が見える〔常陸大宮市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸大宮市、1982年)189頁参照。〕。なお、鯨岡氏の当主 鯨岡三郎左衛門胤良の妹は同じ佐竹家臣の安島氏に嫁いで安島吉兵衛信昌正室になるという〔秋田県公文書館、茨城県立歴史館蔵安島吉兵衛同主税筆『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』参照。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鯨岡氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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