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鰭崎 英朋(ひれざき えいほう、明治13年(1880年)3月29日 - 昭和43年(1968年)11月22日)は明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、挿絵画家、日本画家。 == 来歴 == 右田年英及び川端玉章の門人。号は英朋、別号に絢堂、晋司。本名は太郎。明治13年、東京市京橋区入船町3丁目(現:中央区入船2丁目)に生まれた。父親は小枝(さえだ)という姓で、京都出身の飾り職人であったがすでに行方不明だった。母の鰭崎ラクは当時16歳で、女性一人で英朋を育てることは不可能であり、英朋を自分の父母、与八、ヨシに託し、ラクは他家に嫁いでいった。「鰭崎」という珍しい姓は、画姓ではなくこの祖母ヨシの姓である。その昔、先祖が源頼朝にご馳走を振る舞った所、頼朝の喉に魚の骨が刺さり、「鰭が刺さった」ことに由来するという。 明治21年(1888年)4月、築地明教学校に入学した。明治25年(1892年)12歳で日本橋区蛎殻町2丁目1番地(現:中央区日本橋蛎殻町)の履物商、竹下嘉三郎のところに7年間の丁稚奉公に上がり、真面目な仕事ぶりから奉公先で可愛がられ、早くも16歳で番頭を任される。明治30年(1897年)17歳のある時、主家の子供たちと絵を描いて遊んでいると、主人が英朋に「絵描きになりたいか?」と聞かれ、即座に「はい!」と答えたという。そこで主人は、知人を通じて英朋を右田年英に紹介し、残っていた2年の年期も免除している。右田年英は、浮世絵師で月岡芳年の門人で、同門に河合英忠、笹井英昭、伊東英泰らがいる。師から英朋の号を貰い、明治31年に向島百花園に建てられた「月岡芳年翁之碑」の裏には、年英の門人16名と水野年方の門人15名の名が刻まれており、英朋の名前もその中に含まれている。同明治31年3月18日から5月17日まで開催された日本絵画協会第4回絵画共進会に「山内一豊が妻」という作品を出品、4月11日付けの「東京朝日新聞」に「新橋芸妓手古舞」の挿絵が掲載された。これには「英朋補筆」とあり、師年英筆の絵の補筆をしたものであった。 明治34年(1901年)に鏑木清方ら同志とともに「烏合会」を結成する。同年5月17日付けの「東京朝日新聞」において英朋初の相撲取組を扱った挿絵が掲載され、以降、毎場所ごとに掲載、大正12年(1923年)1月場所の千秋楽まで続けられている。その後、続いて明治37年(1904年)川端玉章に師事、円山派の画法を学ぶ。明治40年(1907年)に錦絵「大日本少年鑑」3種を版行している。また、大正6年(1917年)、英朋は井沢蘇水、野田九浦、本田穆堂、北野恒富、三井万里、幡恒春らとともに合計22人により、芸術社という日本画研究団体を起こし、同展覧会にも作品を出品した。大正13年(1924年)、池田輝方、島成園、鴨下晁湖らと共作をした新版画「新浮世絵美人合 四月 さつき」を版行した。また、この年の1月号から『講談倶楽部』の挿絵を担当し始める。 昭和3年(1928年)、日本挿画家協会が設立され、英朋自身も会員になり、昭和10年(1935年)頃には委員に名を連ねている。また、同昭和3年に戸塚町下戸塚400(現・新宿区高田馬場)に転居している。さらに昭和5年(1930年)には小石川区白山前町48(現・文京区白山)に転居、日本挿画家協会会員有志編として『日本挿画選集』をユウヒ社から刊行、これに英朋の作品も掲載される。昭和10年7月20日、鶴岡八幡宮に「静御前の舞」という作品を奉納。昭和12年(1937年)、57歳の時、講談社の絵本『花咲爺』を手掛けている。翌昭和13年(1938年)、再び鶴岡八幡宮に「流鏑馬神事」を奉納した。昭和15年(1940年)11月20日から29日まで日本電報通信社主催による「明治・大正・昭和挿絵文化展」が日本橋三越にて行われ、「続風流線」などの作品を出品、その後、12月18日から22日までの間、大阪の三越に展示された。 昭和36年(1961年)5月から翌年1月まで、『大相撲画報』に「輝く土俵」という相撲取組絵を連載した。昭和43年(1968年)に自宅において88歳で没。法名は大心院麗妙英朋居士。遺骨は本所吾妻橋の桃青寺に埋葬された。弟子に神保朋世、石井朋昌など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鰭崎英朋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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