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鳥井崎 与助(とりいざき よすけ、1791年〈寛政3年〉 - 1830年〈文政13年〔3月(1830年3月~4月)に没したと言われているが正確な月日は不明。〕〔伊勢海利助追慕碑 五所川原市公式サイト。1790年〈寛政2年〉出生説もある。その場合数え41(満39~40歳)で没したことになる。〕〉)は、柏戸部屋及び伊勢ノ海部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3288&l=j〕。 本名は高橋伝吉〔。身長・体重とも不明。陸奥国津軽郡(現在の青森県五所川原市)藻川〔出身。正確には津軽鉄道線毘沙門駅付近に当たる〔鳥井崎 与助(青森県出身関取一覧・大相撲海峡部屋のHP) 〕。 最高位は西前頭6枚目。 同郷の伊勢ノ海利助(後の柏戸利助。大関。5代伊勢ノ海)の誘いを受け〔、1812年11月場所で初土俵(東二段目5枚目だったため、十枚目付出扱いだった)を踏んだ。十両時代は5割にやや満たない勝率で推移したが、1817年1月場所では8戦全勝の優勝相当成績を残した〔文化14年春場所(大相撲星取表のHP) 〕。初土俵・新十両から12年後の1824年10月場所で漸く新入幕を果たした。その場所2勝3敗4休1預の成績を挙げたが、この2勝が生涯で挙げた幕内での勝ち星となってしまった。翌1825年1月場所で十両に逆戻りし、1827年11月場所で再入幕・1828年3月場所で十両に再出戻り・1829年2月場所で再々入幕と晩年は、幕内と十両の往復に終始した〔。先述の通り、この間幕内では1勝も挙げることが出来なかった。1830年3月場所では番付に載ったのみ〔〔文政13年春場所(大相撲星取表のHP) ※この場所では東十両4枚目に位置付けされた。〕で、その頃に現役死したと考えられている〔。数え40(満38~39歳)の若さだった〔〔。尚、1829年2月場所までは弘前藩の抱えだった。また、師匠の柏戸も鳥井崎の死後、後を追うかのように10月27日(1830年12月3日)に48歳で死去している。 幕内通算 4場所 2勝10敗1預1無19休の成績を残した。優勝相当成績1回(十両時代の1817年1月場所)。 改名歴は2回:鳥井崎 与助 → 鳥井崎 與助 → 鳥井崎 与助〔。 香蝶楼豊国(歌川国貞)によって描かれた、黒岩森之助と共に並んだ浮世絵が現存している〔Kunisada sigend Sumō Prints - publisher Yamamotoya Heikichi - 〕。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳥井崎与助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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