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鳥取のたのも崩れ(とっとりのたのもくずれ)は、天正元年8月1日(1573年8月28日)に山中幸盛ら率いる尼子再興軍と、毛利方の国人・武田高信が率いる軍との間に起こった戦いである。戦いのあった場所が鳥取(因幡国邑美郡鳥取郷。)であり、戦いのあった日が旧暦の8月1日(八朔)であったことから、鳥取のたのも崩れ〔旧暦の8月1日は八朔(はっさく)と呼ばれ、この頃、早稲の穂が実るので「田の実の節句」とも呼ばれていた。このことから、「田の実崩れ」又は「たのも崩れ」と呼ぶ。 〕(鳥取の田の実崩れ)と呼ばれる〔『因幡民談記』は、五、国主之部「鳥取タノモ崩之事」。『陰徳太平記』は、巻第四十八「武田高信甑山を攻 付り 敗軍の事」に記載。〕。 == 合戦までの経緯 == 元亀3年3月から4月(1572年2月から3月)、出雲国における尼子家再興活動(第一回尼子家再興)に失敗した山中幸盛は、毛利軍に捕らわれ尾高城に幽閉されるも脱出する。そして、再び尼子家の再興を図るため但馬の地に潜伏し、尼子旧臣らを招集して出雲の地への進攻をうかがっていた。 天正元年(1573年)初頭、幸盛ら尼子再興軍は、但馬国から因幡国へ攻め込み桐山城を奪取すると、ここを拠点として各地で転戦しつつ勝利を収め勢力を拡大する。幸盛ら尼子再興軍は、この因幡の地を足がかりとして西進し、出雲国を目指したものと思われる。 このとき、因幡国の実質的な支配者は鳥取城の城主・武田高信であった。高信は永禄6年(1563年)に当時の因幡の領主・山名豊数と争い勝利をおさめると、毛利氏と連携を取りつつ因幡の地で勢力を拡大してきた人物である。 高信は、幸盛ら尼子再興軍が勢力を西へ伸ばし、鳥取城にほど近い甑山城(こしきやまじょう)に拠点を移したことを知ると、尼子再興軍の討伐を決定する。同年8月1日(1573年8月28日)、高信は、鳥取城から兵500騎あまりを率いて尼子再興軍の居城・甑山城へ進軍する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳥取のたのも崩れ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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