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憲仁親王妃久子(のりひとしんのうひ ひさこ、1953年(昭和28年)7月10日 - )は、日本の皇族で、高円宮憲仁親王の妃。旧名は、鳥取 久子(とっとり ひさこ)。身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。お印は扇(おうぎ)。勲等は勲一等〔1984年(昭和59年)12月7日『官報』第17351号9ページ「叙勲」〕。学位は博士 (芸術文化学)。称号(名誉学位)として名誉法学博士(アルバータ大学、プリンスエドワードアイランド大学)〔宮内庁・高円宮妃の略歴 〕。憲仁親王薨去後は、高円宮家の当主を務めている。 == 略歴 == 1953年(昭和28年)7月10日、商社に勤務する鳥取滋治郎・二三子夫妻の長女として誕生。鳥取家は香川県三豊郡笠田村の旧家の家柄であった。聖心女子学院初等科・中等科を卒業後、三井物産に務める父のイギリス転勤のため渡英。ケンブリッジ大学ガートン・カレッジで人類学・考古学を学び、1975年(昭和50年)に卒業した後、日本に帰国し翻訳会社に勤める。再度、法律を学ぶために渡英し、1982年(昭和57年)に帰国した。 三笠宮崇仁親王が総裁を務めた第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議で、三笠宮の通訳・助手を務めた。結婚前、旧姓の「鳥取」と「久子」のバランスが悪いため、仕事の際は「鳥取恒久子」という名前の名刺を使っていた。 1984年(昭和59年)4月23日、カナダ大使館のレセプションパーティーにて1歳年少の憲仁親王と出会う。5月上旬には、憲仁親王の父・三笠宮から好意の有無を確認される。5月20日に英語で「Will you marry me?」とのプロポーズに「Yes.」と答え承諾。同年9月17日に納采の儀、12月6日に結婚の礼を行い〔1984年(昭和59年)12月6日宮内庁告示第10号「憲仁親王殿下は、昭和五十九年十二月六日、鳥取久子と結婚の礼を行われた件」〕、憲仁親王と結婚。婚儀と同日に、高円宮家が創設された〔1984年(昭和59年)12月6日宮内庁告示第11号「天皇陛下は、昭和五十九年十二月六日、憲仁親王殿下に、高円宮の称号を賜つた件」〕。承子女王〔1986年(昭和61年)3月11日宮内庁告示第2号「憲仁親王妃久子殿下は、愛育病院において御出産、女王が御誕生になった件」、1986年(昭和61年)3月15日宮内庁告示第3号「御誕生になった憲仁親王殿下の第一女子は、御名を承子と御命名になった件」〕、典子女王〔1988年(昭和63年)7月23日宮内庁告示第4号「憲仁親王妃久子殿下は、愛育病院において御出産、女王が御誕生になつた件」、1988年(昭和63年)7月29日宮内庁告示第5号「御誕生になつた憲仁親王殿下の第二女子は、御名を典子と御命名になつた件」〕、絢子女王〔1990年(平成2年)9月18日宮内庁告示第12号「憲仁親王妃久子殿下は、愛育病院において御出産、女王が御誕生になった件」、1990年(平成2年)9月25日宮内庁告示第15号「御誕生になった憲仁親王殿下の第三女子は、御名を絢子と御命名になった件」〕の3人の女子をもうけた。 日本サッカー協会・名誉総裁である憲仁親王とともに、彼女もサッカー関係の行事に出席する際にはサッカー関連のアクセサリーを身につけるなど、振興に協力した。2002年(平成14年)には、サッカー・ワールドカップ日韓大会が開催された。5月末に夫妻で韓国を公式訪問し、開会式にも出席した。ちなみに日本サッカー協会総裁としてではあるが皇族の公式な韓国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初である。 2002年(平成14年)に憲仁親王が薨去し〔2002年(平成14年)11月25日宮内庁告示第9号「憲仁親王殿下が薨去された件」〕、高円宮家の当主となった。その後は日本サッカー協会、全日本軟式野球連盟、日本水難救済会をはじめ憲仁親王が務めていた諸々の総裁・名誉総裁職を引き継ぎ、精力的に活動している。 2012年(平成24年)に、根付に関する研究で大阪芸術大学より博士 (芸術文化学) の学位を授与された〔「「根付」研究で博士号 高円宮妃久子さま取得 大阪芸大から」『読売新聞』2012年5月18日東京朝刊34面参照。〕。 2013年(平成25年)9月、日本サッカー協会(JFA)・アルゼンチンサッカー協会の友好記念行事に日本サッカー協会名誉総裁として出席するためにアルゼンチンを訪問し、記念式典ではJFAを代表して挨拶を行った後にアルゼンチンナショナルサッカートレーニングセンターを視察した〔アルゼンチンサッカー協会との友好記念行事に高円宮妃殿下がご臨席 日本サッカー協会オフィシャルサイト トピックス(2013年9月7日付)〕。また、両国サッカー協会の記念行事と同時期にブエノスアイレスで2020年夏季オリンピックの開催地選考を行っていたIOC総会が開催されることから、日本の皇族として初めて出席することになった。だが、東京オリンピック招致に結び付けたい首相官邸と皇室の政治利用を懸念する宮内庁との駆け引きの末、出席してスピーチはするもののオリンピック招致を直接呼びかけず招致委員会メンバーのユニホームを着ないことになった〔高円宮妃久子さま、IOC総会出席へ 朝日新聞 2013年9月2日〕。東京のプレゼンテーションにおいて冒頭のスピーチでIOCやスポーツ団体の東日本大震災救援に対する感謝のスピーチを流暢なフランス語と英語で行った。スピーチではオリンピック招致を直接呼びかけることはなかったが、スピーチの最後で「チームジャパンがこれからプレゼンテーションを始めます。説得力のあるものとして聞いていただけると思います」とオリンピック招致について間接的に触れた〔髙円宮妃久子さまお言葉要旨 、産経新聞 2013年9月8日〕。 この第125次IOC総会で2020年夏季オリンピックの誘致活動を行った東京は、マドリードとイスタンブールを破り、2020年東京オリンピック開催が確定した。開催地が東京に決定したのは、このスピーチが大きな影響を与えたとの分析がある。このスピーチについては、オリンピック誘致に政治的な側面があることから宮内庁は慎重であったが、内閣と東京都が押し切って実現した。なお、ライバルのマドリードは、フェリペ王太子(のちの国王フェリペ6世)など王室メンバーが積極的に関わっていた。 2015年4月よりバードライフ・インターナショナル名誉総裁高円宮妃久子のウェブページが新設された〔名誉総裁高円宮妃久子殿下のウェブページが新設されました 、バードライフ東京、2015年4月10日〕。雑誌『婦人画報』で根付と野鳥の連載もしている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「憲仁親王妃久子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hisako, Princess Takamado 」があります。 スポンサード リンク
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