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鳥栖フューチャーズ(とすフューチャーズ、Tosu Futures)は、かつて存在したプロサッカークラブ。Jリーグ準会員クラブの一つで、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)などで活動していた。 == 歴史・概要 == 1987年に静岡県浜松市を本拠にPJMジャパンの設立したサッカークラブ『PJMフューチャーズ』として結成された。静岡県西部3部リーグからスタートし、森下仁之、ウーゴ・マラドーナ(ディエゴ・マラドーナの実弟)らの活躍で順調に昇格、発足から91連勝で1992年に東海社会人リーグで優勝して、1993年からジャパンフットボールリーグ2部に昇格。この年は元アルゼンチン代表のセルヒオ・バティスタ(アルゼンチン代表元監督)が加入し、準優勝。1993年9月にJリーグ準会員申請を行ったが、審査で運営会社の経営基盤、またホームスタジアムの整備の問題などから、11月の理事会・実行委員会では準会員承認を保留された。 1994年、ホームタウンを佐賀県鳥栖市に移転。運営法人の佐賀スポーツクラブ株式会社を設立し、1994年7月に経営基盤改善と、鳥栖スタジアム完成までの暫定本拠地で、1976年開催の第31回国民体育大会(若楠国体)の主会場としての整備を行っていた佐賀県総合運動場陸上競技場の整備が進んでいることを受けてようやく承認され、Jリーグ準会員となった。ただし、当時は準会員チームも参加可能だった同年のJリーグカップ・Jサテライトリーグへは参加できなかった。 1995年、鳥栖フューチャーズと改称し、元日本代表GKの松永成立や元カメルーン代表主将のステファン・タタウなどを大型補強した。1996年も選手の大量補強が行われ、6月に鳥栖スタジアムがオープンすると平均入場者数は1万人を越えた。しかし、3年連続4位にとどまり、Jリーグ昇格は叶わなかった。そんな中、静岡県藤枝市を拠点としていた中央防犯FC藤枝ブルックスがJリーグ参入を目指して福岡市に本拠地を移転し、福岡ブルックス(現在のアビスパ福岡の前身)が誕生。地理的に競合することとなった上に、鳥栖移転時にスポンサーになるはずだった福岡の企業がスポンサーを辞退。更に1996年11月にメインスポンサーのPJMジャパンが撤退した。 1997年1月に12億円の累積赤字を抱えて経営難に陥った佐賀スポーツクラブは臨時株主総会を開いて解散を決議。鳥栖Fは解散となり、Jリーグ準会員も取消された。Jリーグ初期の準会員でJリーグに参加できなかったのは、当チームと本田技研工業サッカー部を母体にする予定で設立された「浜松FC」のみである。なお、浜松FCにはリーグ戦活動期間はなく、活動していたのに参加できなかったのは当チームが唯一である。なお、佐賀スポーツクラブは1998年3月に佐賀地方裁判所より破産宣告を受けた。 PJM撤退後、チーム存続を求める5万人を超える署名があった事などを受け、1997年2月、解散した鳥栖Fの受け皿として任意団体「サガン鳥栖」が設立され、チームへの救済措置として引き続き、鳥栖Fが所属していたジャパンフットボールリーグと、同年のナビスコカップの2大会への特例参加が認められた。サガンは1998年に法人化し、1999年からJリーグ ディビジョン2(J2)に参加している。 また実現しなかった補強だが、当時のPJMフューチャーズ監督桑原勝義が協会にプロリーグ入りを要請しに行ったところ「ディエゴ・マラドーナを連れてきたら考えなくもない」と言われ、本気になった桑原はイタリアまで飛んで本人を追い掛け回して直談判まで持ち込んだ。マラドーナ本人もイタリア生活に疲れていた上に、1990 FIFAワールドカップでアルゼンチンがイタリアを下したために苛烈なバッシングに遭っており、「日本でプレーする」という言質まで取るが、マラドーナの麻薬スキャンダルが発覚し、マラドーナのJリーグ入りは消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳥栖フューチャーズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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