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鳥海修験 : ミニ英和和英辞書
鳥海修験[ちょうかいしゅげん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とり]
 【名詞】 1. bird 2. fowl 3. poultry 
: [しるし]
 【名詞】 1. (1) mark 2. (2) symbol 3. (3) evidence

鳥海修験 : ウィキペディア日本語版
鳥海修験[ちょうかいしゅげん]

鳥海修験(ちょうかいしゅげん)は、山形県秋田県に跨る鳥海山において行われた修験道。古代よりそのものとされた鳥海山は、登山口ごとに修験が発展していった。
== 解説 ==
以下、修験道の概要も交えながら、鳥海修験について解説する( 修験道 も参照のこと)。
修験道は役小角(役行者とも)が創始したと言われる。『鳥海山信仰史』〔松本良一 『鳥海山信仰史』 本の会 1984年7月 より。〕によれば、役小角は静寂清浄な場所、更に雄大な山には神が存在すると認め、そこを修行の地とした。
修験の作法には順峯逆峯があるが、熊野山(和歌山県)から大峯山に入って吉野山(奈良県)へ出る修行を順峯と言う。これとは逆に、吉野山から大峯山に入って熊野山へ出る修行を逆峯と言う。
なお、『鳥海山信仰史』〔では修験には、以下のような2派が存在すると述べている。
*本山派天台宗系 (本山は聖護院)、熊野派、順峯
*当山派真言宗系 (本山は醍醐三宝院)、吉野派、逆峯
鳥海山の場合、宗派と入峯の順逆が必ずしも上記とは一致しない。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』〔戸川安章 『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』 ㈲岩田書院 2005年2月 より。〕では、地理的な理由から、ある程度早く開けた登山口を表口、遅く開けた登山口を裏口と呼び、表口からの入峯を順峯、裏口からの入峯を逆峯とした例が出羽三山にも見られることから、鳥海山でも同様に順峯と逆峯が称されたのではないか、と述べている。なお、『鳥海山史』〔姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。〕では、『矢島史談』にある春の修行を順峯、秋の修行を逆峯と呼ぶ説を紹介している。
古来より鳥海山は神の山とされたが、神仏習合思想により本地垂迹説がもたらされると、薬師如来(薬師瑠璃光如来)が日本の鳥海山に鎮座する大物忌神となり民衆を救済する、という前提から鳥海山大権現が現れたとされ、鳥海山は神の御座す修行の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に修験者が集うようになった。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』〔によれば、本地は薬師瑠璃光如来、垂迹は豊玉姫命だとされていた。
『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』〔山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月 より。〕では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃〔『日本三代実録仁和元年(885年)11月21日の条で飽海郡に神宮寺の存在が確認できるので、設置はそれ以前が推測される。〕と推測し、『鳥海山史』〔では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式が確立される経緯や、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており不詳である。やがて、各登山口の修験者は、諸事情から対立を深めていった。
『鳥海山信仰史』〔では、各登山口に関する『飽海郡誌』の一説を紹介している。それによれば、吹浦は大物忌神を祀って重きを社頭に置き、蕨岡は鳥海山大権現の学頭別当として直接に山上に奉仕して全山の支配権を享有していたのだと言い、同書ではこの記事を真実であると紹介している。また、棟札などの資料から見ると、鳥海山登拝修行道者を先達するところの鳥海山開発経営は矢島、小滝、蕨岡の3つの登山口の修験によって行われ、吹浦の修験は伝統により神領に頼った専ら社前(両所宮、神宮寺)の加持祈祷のみに収入を求めたと見られる、と述べている。
『鳥海山史』〔によれば、修験は天台宗系の本山派と真言宗系の当山派に分かれて対立を深めていたため、江戸幕府慶長18年(1613年)に修験道法度を定めて統制を試みたが失敗したので、本山派と当山派のどちらかに属さねばならないとする統制を試みたと言う。さらに『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』〔によれば、幕府は慶長19年(1614年)に天台宗を宗教上の第1位とする宗教政策を敷いた。
『鳥海山史』〔では、修験道法度の制定に対応し、羽黒山では独立を保つため一山全てを天台宗としたに対し、鳥海山では、各登山口が系統を異にして発達した関係で、いまだ本山派と当山派に分かれたままだったと述べている。さらに同書では、その状況を示すものとして、江戸時代に修験者同士の争いが矢島藩庄内藩を巻き込んだ「嶺境論争」を例に挙げている。すなわち、「嶺境論争」は単なる山争いの問題ではなく、各々その系統や成立を異にした歴史的立場を主張したため、争いを激化させたと考察している。
明治元年(1868年)新政府は神仏分離令を発布、明治5年(1872年)には修験禁止令が出されたため、鳥海山から修験者の姿は消え、現在は全くみられなくなった。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』〔では、鳥海修験の崩壊から1世紀以上が経ち、生き残りの修験者も姿を消して資料も散逸したため、鳥海修験の調査研究は困難を極めるとしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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