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鳩山 邦夫(はとやま くにお、1948年(昭和23年)9月13日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(13期)。「邦」の字体は、偏の縦の払いが上にはみ出ないのが正式とされる。 文部大臣(第116代)、労働大臣(第59代)、法務大臣(第79・80代)、総務大臣(第10代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、民主党副代表、裁判官訴追委員会委員長、地方創生に関する特別委員会委員長等を歴任した。 == 来歴・人物 == 東京都に鳩山威一郎の次男として生まれる。 学習院初等科、学習院中等科、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を経て、東京大学法学部政治学科卒業後、同公法学科に学士入学し卒業。学習院の同級生に作曲家の都倉俊一、東京大学名誉教授の能見善久、ゆうちょ銀行社長(元シティバンク銀行会長)の長門正貢、元朝日新聞編集委員の萩谷順などがいる〔「同級生交歓 > 学習院中等科」 文芸春秋2013.05.01〕。早くから政界入りを志望し、田中角栄の下を訪ねる。田中は「もし自分が首相になったら秘書にする。福田赳夫が首相になったら、福田に紹介する」と約束した上で、見聞を広めるため海外への遊学を鳩山に勧めた〔このエピソードは大下英治著の『闘争!角栄学校』でも書かれている。〕。鳩山は田中の助言を受け、東大を卒業しアメリカ・スタンフォード大学に留学していた由紀夫を頼り、数ヶ月間アメリカに滞在した後、帰国した。その後、田中の秘書となり、事務所では1つ年下で1976年(昭和51年)の衆院選で共に当選した中村喜四郎と机を並べた〔鳩山と中村は宮澤内閣で共に入閣しており、鳩山は文相、中村は建設相を務めた。〕。 1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し、初当選。同じく無所属の宇都宮徳馬、麻生良方と衆院無党派クラブを結成した(1978年に解散)。1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙において落選するが、わずか8か月後に行われた第36回衆議院議員総選挙で国政復帰を果たす強運に恵まれる。自民党入党後は田中派→竹下派に所属した。1991年(平成3年)、宮澤内閣で文部大臣に就任し、政界入りから16年目で初入閣を果たした。文相在任中、「学力偏差値追放」を訴え一斉業者テストを廃止した。 1993年(平成5年)に自民党を離党し、第40回衆議院議員総選挙では無所属で当選。細川内閣発足後もしばらくは無所属で通していたが、1994年(平成6年)1月、前年に自民党を離党した西岡武夫、石破茂らと院内会派・改革の会を結成した。細川護煕首相の退陣を受けて発足した羽田内閣では労働大臣に就任するも、羽田内閣は2ヶ月で退陣に追い込まれた。改革の会は高志会(海部俊樹代表)、新党みらい(鹿野道彦代表)、自由党(柿澤弘治党首)と共に自由改革連合を結成するが、同年12月に解散し、新進党結党に参加した。 1996年(平成8年)に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結党、副代表に就任する。更に1998年(平成10年)、民政党の合流により民主党が結成され、東京都連初代会長に就任した。しかし、党の路線をめぐり、徐々に兄弟間で対立が目立つようになった。その後、民主党を離党し、1999年東京都知事選挙に立候補した。不出馬を表明した青島幸男知事の後継指名、及び民主党・生活者ネット・改革クラブの推薦を受け、石原慎太郎の後塵を拝し、2位で落選した(3位は東大法学部の同級生である舛添要一)。前述の通り選挙戦で民主党の全党的な支援を受け、同党衆院議員の岩國哲人が選対本部長、吉田公一が事務総長を務めた。都知事選落選後は民主党からは距離を置き、2000年(平成12年)に自民党に復党する(かねてから邦夫は、民主党の実質的なオーナーである兄・由紀夫との不仲が囁かれており、都知事選出馬は民主党を離党するための口実であったとする見方もある)。東京2区補欠選挙には系列都議中山義活を擁立し、鳩山の中選挙区時代からのライバルで1996年(平成8年)第41回衆議院議員総選挙で鳩山に敗北し、比例復活した深谷隆司は自民党総務会長在職中のため出馬せず、中山が初当選した。 2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では、自らは東京ブロック比例単独候補として出馬し、東京2区で深谷を支援した(鳩山は当選したが、深谷は通商産業大臣在任中でありながら比例復活が出来ず、落選)。2002年(平成14年)に衆院議院運営委員長に就任した。 2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では突然「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表の菅直人の選出選挙区である東京都第18区に国替えし、出馬。民主党の創設者同士の戦いとして注目され、一時は「逆転」と報道されるほど猛追したが及ばず、小選挙区では落選したが比例東京ブロックで復活当選した。 2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙から、母方の祖父・石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡県第6区へ国替えし、東大法学部の同級生で、かつ兄・由紀夫の側近である古賀一成を破り、当選した。 2006年(平成18年)9月の自由民主党総裁選挙への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を断念。麻生太郎を支持した。鳩山は自民党復党以降無派閥を通していたが、2006年(平成18年)10月、かつて所属した経世会の流れを汲む津島派(平成研究会)に入会した。 2007年(平成19年)の安倍改造内閣で法務大臣に就任するが、安倍晋三首相は間もなく病気辞任する(鳩山自身は13年ぶりの入閣)。2007年自由民主党総裁選挙では麻生太郎自由民主党幹事長の推薦人代表を務めた、福田内閣でも法務大臣に再任された。 2008年(平成20年)5月、津島派の役員人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。同年9月に発足した麻生内閣では総務大臣兼内閣府特命担当大臣(地方分権改革)に就任したが、翌2009年(平成21年)6月12日日本郵政西川善文社長の進退問題を受け、辞任(事実上の更迭)。 閣僚辞任以降は離党や新党立ち上げを匂わす発言を繰り返し、議員を集めて自らが手料理を振舞う「有機野菜を食べる会」を開催したり平沼赳夫と会談するなど積極的な動きを見せる。 しかし政界再編のための新党構想を公言するも、邦夫も兄・由紀夫同様実母から多額の贈与を受けていた問題が発覚し、自民党内で徐々に孤立する。2010年(平成22年)3月15日、自民党に離党届を提出し、24日の党紀委員会で了承された。邦夫に近いとされてきた麻生派の岩屋毅、平成研究会の田村憲久、河井克行、無派閥(のぞみには参加している)の古川禎久らは同調せず自民党に残留。離党後の内閣総理大臣指名選挙では無所属ながら衆院では唯一新党改革代表の舛添に投票。 2011年(平成23年)8月30日の総理指名選挙では一転して古巣の自民党の谷垣禎一総裁に投票。また、自身も無所属の中島正純より一票を得た。4ヶ月後の12月21日、自民党に復党届を提出するが、党内の調整がつかず、復党の許否判断が先送りされる。 2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙には無所属で出馬し、自民党の推薦を受けて12選を果たした。翌日、安倍晋三総裁宛ての復党願を同党福岡県連に提出。その後、党紀委員会にて復党が了承され、11日後の12月28日に2年ぶりに復党した。2014年(平成26年)12月14日の第47回衆議院議員総選挙には自民党公認で出馬し、13選。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳩山邦夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kunio Hatoyama 」があります。 スポンサード リンク
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