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鳳凰 倶往(ほうおう ともみち、本名:壁谷 友道(かべや ともみち)、1956年12月7日 - 2013年1月16日)は、1970年代から1980年代にかけて活躍した大相撲力士。愛知県蒲郡市出身。二所ノ関部屋に所属していた。最高位は東関脇(1984年7月場所)。現役時代の体格は180cm、152kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。 == 来歴・人物 == 蒲郡市立西浦中学校では柔道部に在籍し、主に地元の大会で活躍した。柔道部の12年先輩である玉の海に憧れて大相撲入りを待望していたところ、中学3年生の時に当時の濱風親方(元前頭11・宮柱)の勧誘を受け、二所ノ関部屋に入門。1971年9月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ「壁谷」。 なお皮肉にも、この場所を最後に玉の海は虫垂炎の悪化による腹膜炎で急逝し、結果として壁谷と玉の海が同じ現役の土俵に立った唯一の場所となった。翌11月場所では、番付からも消滅した玉の海と入れ替わるように、序ノ口力士として初めて番付にその四股名が掲載された。 当時は中学在学中の入門が許可されていたが、翌11月場所中に在学中の本場所出場が問題になり、壁谷ら「中学生力士」はすべて4番相撲を取ったところで帰京していた。そして、翌年1月場所は日曜日のみ出場して3番相撲を取り、翌3月場所は大阪での開催のために出場を認められなかった。こうした経験を持つ力士には、後の大関・琴風の他、小結まで進んだ大徹(当時の四股名は、本名の「南」)や前頭2枚目まで昇った斉須らがいる。 三段目時代の1974年1月、明治時代に活躍した大関にちなむ「鳳凰」に改名。同年11月場所では幕下に進み、以降は3年半ほど幕下にいたが、1978年5月場所で新十両に昇進。そして、1979年7月場所にて、22歳で新入幕を果たした。 入幕後は腰の重さを利して、しばしば上位陣を食うなど活躍した。左四つからの上手投げや寄りを得意としたが、なまくら四つで右四つでも相撲が取れた。その反面、攻めに厳しさがなく、大成できなかった。また大勝ちが少なかった分、三賞とは縁がなかった。〔前頭7枚目で10勝を挙げた1980年9月場所と、横綱・大関陣との対戦圏内で唯一勝ち越した1984年5月場所では三賞候補に挙がったが、いずれも受賞を逸している。〕 三賞受賞は成らなかったが、小結と関脇にはそれぞれ、1場所だけではあるが昇進した。 なお、三賞制度ができてから入幕した最高位が関脇の力士で、三賞を受賞できなかった力士は鳳凰のみである(※2014年3月場所後現在。現役力士には、該当者無し)。ただし、金星は3個獲得している。 1983年9月場所と翌場所では「2場所連続十両優勝」という快挙を達成しているが、三役経験後十両に落ちた力士でこれを成した例は鳳凰の他に元関脇・益荒雄や元関脇・鷲羽山など、数少ない。 関脇昇進後は一時幕下8枚目まで番付を落としていたが幕内に返り咲き、1989年1月場所まで、計34場所幕内を務めた。 同年5月場所では十両の土俵で15戦全敗を喫し、翌7月場所では幕下へ転落した。それ以降は関取に復帰する事ができず、幕下53枚目まで番付を下げて1990年5月場所限り、33歳で廃業した。 真偽は不明だが、鳳凰が角界に残るための資金を捻出するために先代二所ノ関(元関脇・金剛)が年寄株「二所ノ関」を担保に借り入れを行ったが花籠事件(詳細は輪島大士)の影響で融資先に手つかずの借入金を返却して、年寄株の抵当を解除したという逸話が残っている。 現役晩年の幕下時代には貴花田(後の横綱・貴乃花)と対戦し、「花田親子」の双方と対戦した数少ない力士となった。〔父・貴ノ花とは、4度対戦して1勝3敗。貴花田との取組は一度限り(1989年7月場所・4日目)であったが、勝利している。なお、若花田(後の横綱・3代若乃花)とは対戦する機会がなかった。〕 廃業後は、主に東京都中央区築地内の企業に勤務し、一時間垣部屋でコーチも務めていた。2005年1月時点では、会社に勤めながらアマチュア相撲を指導していたと伝わっている。〔『相撲』2005年1月号〕晩年の6年間は帰郷して、蒲郡市内で生活していたという。 2013年1月16日、心臓疾患により逝去。。喪主は、母親が務めた。〔ベースボール・マガジン社発行「相撲」2013年春場所展望号より。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳳凰倶往」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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