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奈良原 三次(ならはら さんじ、1877年(明治10年)2月11日 - 1944年(昭和19年)7月14日)は、日本の航空のパイオニアである。鹿児島生まれ、元日本海軍軍属技士で、1911年(明治44年)5月に自作の複葉機で飛行に成功し、翌年日本で初めての民間飛行場を開設し、生涯にわたり航空の発展に寄与した。男爵。 == 経歴 == 1877年(明治10年)2月11日、男爵 奈良原繁の次男として鹿児島県鹿児島府下高麗町(現:鹿児島市高麗町)に生まれた。 1894年(明治27年)、城北中学(現 都立戸山高校)を卒業後、八年ほど置いて第六高等学校に進学。1908年(明治41年)、東京帝国大学(現:東京大学)工学部造兵科を卒業して海軍少技士に任官した。飛行機の研究をはじめ、臨時軍用気球研究会の委員に任じられる。1910年(明治43年)自費で機体に丸竹を用い「奈良原式1号飛行機」を製作するが、同研究会から許可の下りたアンザニ25HPエンジン〔このエンジンは、空冷式扇型3気筒、ブレリオ機(Blériot XI)と同型。〕(Anzani-3W)の出力不足などもあり離陸できなかった。同委員を辞し海軍を退役後の翌1911年(明治44年)、私有のノーム50HPエンジン〔このエンジンは、空冷星型7気筒回転式、アンリ・ファルマン複葉機(Farman III)と同型。〕(Gnome Omega)を搭載して「奈良原式2号飛行機」を製作、同年5月5日、所沢飛行場にて自らの操縦で高度約4m、距離約60mの飛行に成功した。国産機による初めての飛行記録であるとされる(一方、これより10日ほど早い同1911年4月24日に、森田新造が大阪の城東練兵場で距離約80mの直線飛行に成功したという記録もある)。 1912年(明治45年)5月、千葉県の稲毛海岸に民間飛行場を開き、白戸栄之助、伊藤音次郎らの民間パイロットを養成し、奈良原式4号機「鳳号」などを製作し、日本の民間航空の発展につくした。1913年(大正2年)航空界から一旦引退する。1930年(昭和5年)に日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、以降も後進の指導・育成にあたり、またグライダーの発達・普及などにも尽力した。1944年(昭和19年)7月14日に死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奈良原三次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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