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鳴尾(なるお)は、兵庫県西宮市南東部、武庫川とかつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川の三角州上の地域。古くから松の景勝地として知られ、謡曲『高砂』に〈遠く鳴尾の沖過ぎて〉とあるのは目印とされた一本松(現在五代目)に由来する。 古くは「成尾」とも見え、武庫川右岸に位置する。地名は緩やかな傾斜を示す「ナル」(「均(なら)す」と同根)と武庫川の河口端の「尾」の合わさったものとみられる(田岡香逸『西宮地名考』民俗文化研究会)。 明治22年(1889年)武庫郡鳴尾村となり、昭和26年(1951年)西宮市に合併された。そのとき西宮市役所の支所が設けられ鳴尾村域は鳴尾支所管区となった。 ==地理== 鳴尾支所の管区は上鳴尾町、池開町、上田中町、上田西町、上田東町、枝川町、学文殿町、笠屋町、小曽根町、甲子園町、甲子園一番町、甲子園二番町、甲子園三番町、甲子園四番町、甲子園五番町、甲子園六番町、甲子園七番町、甲子園八番町、甲子園九番町、甲子園浜、小松南町、小松東町、小松西町、小松北町、小松町、里中町、高須町、鳴尾町、鳴尾浜、花園町、浜甲子園、東鳴尾町、古川町、南甲子園、武庫川町、若草町の各全域である(西宮市条例第14号第2条(3) )。 時代を遡ると、人工島である甲子園浜はなかったし、甲子園と呼ばれる地域も川であった。鳴尾村と合併して字となった小松・小曽根・上田新田もかつては別扱いで、それぞれが別の領主を戴いていた。埋め立て前の海岸線も、武庫川が運んだ土砂が堆積によって次第に形成されたものである。したがって鳴尾と呼ばれる範囲は時代が進むごとに拡大している。 鳴尾は武庫川下流の砂礫地がなだらかに海へ広がる地で、「ナル」「ナラ」が付く地名に多い緩やかな傾斜地である。鳴尾地域を西宮から切り離していた支川は武庫川が大きく流路を変える荒れ川だった名残で、現況にほぼ固定したのは豊臣時代に完成した連続堤による。枝川は中世後期に本流から枝分かれした川で、申川は元文5年(1740年)庚申の年に枝川から分流した。これらは武庫川の堤防改修と阪神国道(現・国道2号)建設費捻出のために埋立てられ甲子園となった。この三角州地帯はかつて開発時に開削された溝が四通八通し、流路が取り残された池も見られる。周囲は天井川に囲まれて、洪水になりやすい反面旱魃にも弱かった。 鳴尾集落中央を横切る中国路は中世末の海岸線にできた新道で、沿道の岡太神社(おかしの宮)の前を女性が通る際に裾を高く上げなければならないという奇習には付近が高潮で悩んでいた事を伝えるとの説がある。 上流の瓦林(現・瓦木支所管区)とは豊臣時代に激しく水を争い、双方共に数十人が処刑され、甲子園三番町には先祖を偲ぶ碑が立つ。 船乗りのみならず都にまで知られた「鳴尾の孤松(ひとりまつ)」は里中町の住宅街に銘碑と若い5代目が立つ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳴尾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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