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鳴滝 忠五郎(なるたき ちゅうごろう、1782年〈天明2年〉 - 1818年3月19日〈文化15年2月13日〉)は、滝登部屋(松江相撲),佐渡ヶ嶽部屋及び関ノ戸部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3239&l=j〕。 本名は石田。身長175cm、体重120kg。出雲国大原郡(現在の島根県雲南市)出身〔。 最高位は西関脇。 松江藩の抱えとして、1805年2月場所で初土俵(三段目)を踏んだ。1809年2月場所で西二段目9枚目(十枚目格)に昇進。その場所でいきなり7勝2敗の優勝相当成績を挙げた。その後はやや低迷した時期もあったが、1812年11月場所で新入幕。1年遅れで初土俵を踏んだ柏戸利助とはライバル関係にあり、1813年1月場所で7勝1敗2休,1814年11月場所で7勝2敗1分,1815年3月場所で6勝1敗3休,1816年10月場所で8勝1敗1分の好成績を挙げるも、いずれも柏戸〔1814年11月場所は玉垣額之助と同点優勝という説もある。〕に優勝相当成績をさらわれた。それでも1817年1月場所で6勝1敗1休1分1無の成績〔文化14年春場所 大相撲星取表のHP〕を挙げ、悲願の優勝相当成績の栄誉に輝いた。翌1817年10月場所では、6勝1敗2休1分との成績を挙げるも、6勝1敗2休1預の成績を挙げた柏戸にまたしても優勝相当成績をさらわれた。柏戸に優勝相当成績をさらわれること5回、成績上では大関になってもおかしくなかったが関脇止まりに終わり、1818年2月13日に現役中のまま病気で死去した〔古今大相撲事典(ISBN-13: 978-4336018786)〕。37歳だった。 幕内通算 8場所 45勝11敗5分1無18休の成績を残した。優勝相当成績2回(幕内1回〈1817年1月場所〉、十両1回〈1809年2月場所〉)。 改名歴は1回:御所ノ浦 忠五郎 → 鳴滝 忠五郎〔。 勝川春亭によって描かれた錦絵が現存し、2014年6月には浮世絵 太田記念美術館(東京都渋谷区)で「江戸の相撲と力士たち 石黒和義コレクション」として展示された〔江戸の相撲と力士たち 石黒和義コレクション リサーチ・ナビ 国立国会図書館〕〔江戸の相撲と力士たち(出品リスト) 太田記念美術館HP〕。また相撲史上少ない島根県出身の力士としては、初めて関脇に昇進した力士でもある〔島根県出身の歴代三役力士 リメンバーしまね(島根県公認。島根応援サイト)、言わせて!聞かせて!わいわい広場(Post.4918、2011年9月2日投稿)。鳴滝の前には釋迦ヶ嶽雲右エ門が大関になっている(1770年11月)が、看板大関としての物だった。また鳴滝の後には陣幕久五郎(第12代横綱)が1863年7月場所、谷ノ音喜市(最高位・西関脇)が1894年5月場所、隠岐の海歩が2015年3月場所に関脇に昇進している。〕。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鳴滝忠五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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