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鴨川ダム(かもがわダム)は兵庫県加東市黒谷、一級河川・加古川水系鴨川に建設されたダムである。 農林水産省近畿農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、高さ43.5メートルの重力式コンクリートダム。旧農林省によって手掛けられた国営東条川農業水利事業の中心施設として建設され、播磨平野中部の灌漑を目的としている。完成後も農林水産省による直轄管理が行われる数少ないダムの一つで、加古川水系に建設された他の直轄ダムと総合的に管理されている。ダムによって形成された人造湖は地元の名称を採って東条湖(とうじょうこ)と命名されたが、関西地方有数の観光地として多くの観光客が訪れるスポットとなっている。 == 沿革 == 播磨平野は弥生時代中期より稲作が盛んになった地域である。しかしこの地は瀬戸内海気候に属しており、温暖な土地柄である反面降水量が少なく慢性的な水不足に悩まされる地域であった。このため古くよりため池が盛んに造られ、香川県の讃岐平野や和歌山県の和歌山平野などと共に日本でため池が密集している地域となっている。江戸時代に入っても播磨国は一国を支配していた池田氏が岡山藩に転封後、姫路藩、明石藩、赤穂藩など13の中小諸藩に分割され、さらに天領や旗本の所領が入り組んで複雑な支配体系となり、この地を流れる大河・加古川の有効利用がなかなか図れず農民は新田開発もままならない状態であった。 明治に入り加古川水系の開発が本格的に進められ、支流を利用した淡河川(おうごがわ)疏水が建設されるなどしたが根本的な解決には至らず、さらに稲作に代わる商品作物として盛んに栽培されていた綿花が、地租改正と欧米からの安価な輸入品に押されて壊滅的な打撃を受けた。このため播磨平野の農家は再び稲作へ活路を見出さなければならなくなったが加古川を利用した農業用水の整備は遅れたままであり、政府による大規模な開発を切望するようになった。 1924年(大正13年)、加東郡・加西郡・印南郡・加古郡・美嚢郡の播磨地域5郡27町村の首長は東播磨農業開発期成同盟を結成。農業用水確保のために水源となる農業用ダムと用水路を建設するよう政府に大規模な陳情を行った。この陳情は政府によって採用され、国会での採択が行われたあと実態調査が行われた。しかし当時は1931年(昭和6年)に満州事変が勃発、1937年(昭和12年)の日中戦争から1941年(昭和16年)太平洋戦争の開戦という戦時体制に突入する状況であり、極めて時期が悪かった。このため政府も次第に軍需産業育成一辺倒になり農業政策が後手に回り、その上1944年(昭和19年)に小磯内閣が「決戦非常措置要領」を発布して全資源を戦時体制に費やすことを決めたためにダム事業が続々中断され、結果的に加古川筋における農業用ダム建設の話も自然消滅した。 太平洋戦争の敗戦後日本は深刻な食糧危機に陥り、食糧確保に困窮する国民の不満は増大。東京都世田谷区民25万人が皇居へ押し寄せる食糧メーデーまで発生した。背後に日本共産党が活動していることを察知した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は国民の不満を逸らし「赤化」を阻止するため緊急食糧援助を行う傍ら、新規に農地開墾を行って食糧増産態勢を図り、早急に食糧自給率の回復を目指す政策の検討に入った。そして1947年(昭和22年)農林省はGHQの指示を受けて国営農業水利事業を発足させ、全国4水系・河川を対象にダム・頭首工・用水路を整備して広範囲の農地に農業用水を供給し、大規模な圃場(ほじょう)整備を行って食糧増産を図った。この中で静岡県の大井川、福井県の九頭竜川、滋賀県の野洲川と共に第一次の農業水利事業対象地域に選ばれたのが加古川であり、水源として建設されるダム事業の第一弾として鴨川ダムが計画された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鴨川ダム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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