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鴨緑丸(おうりょくまる)は、かつて大阪商船が所有し運航していた貨客船である。大阪商船の大阪大連線(大連航路)用として建造され、実際に航路に就航した船としては最後の船であった〔次級の筑紫丸級貨客船は、「筑紫丸」は完成と同時に特設潜水母艦として運用され、「浪速丸」は建造中止となった。〕。太平洋戦争中は船舶運営会管理下で貨客船としてのほか、陸軍および海軍の配当船としても行動した。連合国側からは、いわゆる「ヘルシップ(地獄船)」の一隻として認知されている。 ==概要== 黒龍丸級貨客船の二番船として三菱長崎造船所で建造された。当初予定されていた船名は松花江にちなんだ「松花丸」であったが、のちに「鴨緑丸」に改められた〔#野間 p.456〕。1936年(昭和11年)12月5日に起工し、1937年(昭和12年)4月27日に進水式を迎える。しかし、その進水式当日にハプニングが起こる。式は昼ごろに予定されており、そのための点検が朝から行われていた〔#創業百年の長崎造船所 p.41〕。しかし、船体の滑り止めの役割を果たすトリガーの試験中に突然船体が滑走をはじめ、そのまま海に浮かんでしまった〔。このハプニングを受け、長崎造船所側は副長を旅館に宿泊中の大阪商船村田省蔵社長の下に詫びに行かせたが、これに対し村田は「そりゃよかった。怪我人はないか、母体を出るのが待ち切れずお産が早かったのだからお目出度いことではないか」と言って事故を不問とした〔。竣工は昭和12年9月30日である。 大連航路の最新鋭船として内装も華麗を極め、秋草模様のエッチングガラスなどで装飾されていた〔。竣工後の10月20日に処女航海のため神戸港を出港し、以降12日間隔で就航〔。「鴨緑丸」の就航で大連航路全体の就航船は10隻を数え、月間25回の定期航海を行うようになった〔#商船八十年史 p.282〕。しかし、この時にはすでに日中戦争が勃発しており、徴傭船が出た影響で航路就航船が5隻に減少〔。南満州鉄道系の大連汽船からの用船のほか、「あるぜんちな丸」(12,755トン)や「報国丸」(10,438トン)、「西貢丸」(5,350トン)、「りおでじゃねろ丸」(9,627トン)など世界情勢の影響による遠洋航路からの撤退船を大量に投入して航路の維持を図った〔#商船八十年史 pp.282-283〕。それでも戦乱の影響は止まらず、1942年(昭和17年)初頭の時点では「鴨緑丸」を含む5隻11航海の規模で定期を維持するのがやっとの状態だった〔#商船八十年史 p.283〕。昭和17年4月の船舶運営会設立を期に翌5月に航路そのものを船舶運営会に移管〔。以降も1943年(昭和18年)7月ごろまでは大連航路に就航したが、当時の使用船は「鴨緑丸」と「大連丸」(大連汽船、3,748トン)だけで昔日の賑やかさはなかった〔#佐鎮1805 p.34〕。8月からは台湾航路に転じて神戸と基隆間に就航したが、道中は海防艦など艦艇の護衛がついて物々しい航海となった〔#高警1808 p.21〕〔#高警1809 p.19〕〔#鴨緑丸(2) p.26〕。海軍配当船に指定された正確な時期は定かではないが、1944年(昭和19年)2月の時点では海軍配当船に指定されており、台湾航路で兵器や人員輸送にも任じていた〔。 1943年(昭和18年)10月25日、「鴨緑丸」は貨客船「富士丸」(日本郵船、9,138トン)および「賀茂丸」(日本郵船、8,524トン)とともにマ08船団を編成し、駆逐艦「汐風」の護衛により基隆を出港して日本本土へ向かう〔#駒宮 p.99〕〔#鴨緑丸(1)〕。しかし、10月27日未明にの奄美大島曽津高崎灯台西方海域で、アメリカの潜水艦グレイバック (''USS Grayback, SS-208'') とシャード (''USS Shad, SS-235'')の2隻に発見された。0時27分、「賀茂丸」にシャードからの魚雷が1本命中し、賀茂丸は沈没を防ぐべく応急修理の上、22時30分ごろに修理のため奄美大島久慈湾に座礁した〔〔#SS-235, USS SHAD pp.143-144〕〔#賀茂丸〕。次いで6時20分、「賀茂丸」から脱出した乗船者の収容作業を行うため停止していた「富士丸」の後部にグレイバックからの魚雷が1本命中し、「富士丸」は6時45分に沈没した〔#SS-208, USS GRAYBACK p.350-352〕〔#富士丸〕〔#駒宮 pp.99-100〕。船団中唯一健在の「鴨緑丸」は、「富士丸」遭難者の救助を行ったのち一旦避退したものの、進路を戻して航行中の12時25分にグレイバックの射程内に入り、魚雷が1本命中したが幸いにして不発に終わったものの救助作業を打ち切り、10月28日に門司に入港した〔〔#SS-208, USS GRAYBACK pp.353-354〕〔#駒宮 p.100〕。 1944年(昭和19年)4月下旬からは新潟と羅津の間航路に転じ、7月12日まで就航する〔#鴨緑丸(2) pp.27-32〕。7月12日付で陸軍配当船となり、8月10日伊万里湾出港のヒ71船団に加入して南に下る。馬公でヒ71船団と離れて基隆に向かい、8月18日に到着〔#鴨緑丸(2) p.33〕〔#駒宮 pp.225-226〕。翌19日に陸軍配当船を解除され〔、9月から10月下旬にかけては台湾航路に戻り、10月4日と12日、13日に空襲に遭いながらも一往復半の航海を行った〔#鴨緑丸(2) pp.34-35〕。11月の大半を門司、宇品と釜山間での第十師団および第二十三師団からの歩兵連隊の輸送に費やしたあと、11月25日門司出港のヒ83船団に加入〔#鴨緑丸(2) pp.35-36〕〔#駒宮 p.297〕。11月30日に高雄到着後編成替えが行われ、「鴨緑丸」は同じく第十師団および第二十三師団の将兵を乗せた輸送船とともにタマ35船団を編成し、12月5日に高雄を出港して敵襲を避けるべく島影に隠れたり欺瞞航路を進みながら12月11日に無傷でマニラに入港した〔#駒宮 p.297,301〕。 タマ35船団の加入船のうち、「鴨緑丸」のみは日本への帰還命令を受ける〔#野間 p.457〕。すでにレイテ島の戦いも大勢が決し、アメリカ第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)や第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)も依然ルソン島近海で行動して、これに対し陸海軍の特攻隊が連日のように突入を繰り返している状況だった〔。「鴨緑丸」は「最後の引揚げ船」として、ルソン島から引き揚げる日本人、遭難船員、そして約1,600名の捕虜合わせておよそ3,500名を乗せ、駆逐艦「桃」および駆潜艇に護衛されて12月13日夕刻にマニラを出港する〔。慌しい出港で、石炭庫内の石炭をならさないまま出港したため船体が左に傾いた状態だった〔。「鴨緑丸」はマニラ港外で一晩過ごしたあと、翌12月14日から航行を再開する〔。しかし、航行再開から4時間後に第38任務部隊の艦載機が飛来し、銃爆撃を繰り返す〔。当時の「鴨緑丸」は砲3門と機銃12基を装備し、12月14日の攻撃では「8機撃墜、4機撃破」の戦果を報じる〔#鴨緑丸(2) p.37〕。12月15日も空母ホーネット (''USS Hornet, CV-12'') 艦載機の空襲を受け、ついに被弾〔。被弾によって火災が発生するが、乗組員、高砂義勇隊など将兵および捕虜が協力して消火に努めるも、石炭の偏載に加えて被弾による浸水により大きく傾いた「鴨緑丸」は、スービック湾内に退避して、捕虜や便乗者などを上陸させた〔。上陸した乗組員などが見守る中、「鴨緑丸」は火に包まれた末に16時15分に横転してついに沈没していった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鴨緑丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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