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鴻池幸元 : ミニ英和和英辞書
鴻池幸元[げん, もと, がん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いけ]
 【名詞】 1. pond 
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 

鴻池幸元 ( リダイレクト:鴻池直文 ) : ウィキペディア日本語版
鴻池直文[こうのいけ なおふみ]
鴻池 直文(こうのいけ なおふみ、元亀元年12月18日1571年1月23日)- 慶安3年12月5日1651年1月26日))は、江戸時代豪商で、鴻池財閥の始祖。山中幸盛の長男で、通称を新六、新右衛門。号を宗圓。
または山中 幸元(やまなか ゆきもと)ともいう。
墓所は、大阪市中央区中寺町2丁目の顕孝庵、兵庫県伊丹市鴻池の慈眼寺、大阪府池田市の大広寺、高野山奥の院などにあり、法号は実相院一翁宗円居士。
== 生涯 ==
山中幸盛の長男として生まれる。幸盛はこの幸元を、山中家の本家にあたる別所長治の家臣・黒田幸隆に預けていた。幸盛は嫡子のなかった幸隆に請われて、幸元を黒田本家の養子とする事を承諾していたが、黒田一族は加古川の上流黒田庄一円に蟠居していた。そのため幸元も黒田庄で育ったものと考えられている。山中幸盛は毛利氏のため天正6年(1578年)に討死に、黒田幸隆は同年、豊臣秀吉のため滅びた、実父と養父が反対の陣営にあり複雑であり、そのどちらかの死により居所を捨てねばならなくなり、9歳で流浪の身となった。
この前後の詳細は不明であるが、大伯父である山中信直をたよって伊丹に落ちのび、ここで成長したものである。山中信直は山中幸盛の伯父に当たり、山中幸元の育ての親であるため鴻池家においては太祖という。山中幸元は山中氏を称したが、これは5代前の黒田治宗が身を隠していた時期、山中と称していた事に倣ったという。
山中幸元は伊丹の地で遅くとも慶長の始めには酒造業を始めており、慶長4年(1599年)には江戸送りを開始している。馬による輸送で、江戸送りの元祖といわれた。折からの江戸時代の始まりと相揃って事業は発展拡張した。商号は地名をとって鴻池屋と号した。
又この頃清酒を開発したために事業が飛躍したといわれ、摂陽落穂集等多数の文献に清酒の伝承が語られているが、鴻池山中屋の店で、叱られた手代が腹癒せに酒樽にかまどの灰を投げ込んだために濁り酒が豊潤な清酒になったというものである。本格的な清酒の生産は我国の最初とされる。
慶長19年(1614年)、最初の家訓である「幸元子孫制詞条目」を定めた。元和年間に次男以下と共に大坂に進出して酒造業を大規模に拡大し、寛永年間には九条島が開発されるやここに拠って海運業を起こし商品運送を始めたが、まもなく参勤交代の制度が出来たことにより、西国大名の運送を請け負って成長した。幸元の生涯を見ると、事業が非常にタイミングよく展開してゆくのがわかる。大坂における本拠地は和泉町であったと思われるが、これまで、家史・年表・系図等に内久宝寺町を本拠地としたとされているが、これは後述する如く誤りである。
幸元は山中幸盛の実子である事、山中家の本家黒田家の跡を継ぐべき立場にいた事等自分の出自を秘匿し、「禁戒之一書」「遺訓」にも書き記して子供達にも秘密を命じたとされ、未だその累が及ぶ恐れがあったことと、武士を捨てて事業に生きる時にはその経緯が害にこそなれ益にならずと考えたからである。しかし一度だけ自ら、その禁を犯した事がある。元和元年(1615年)高野山へ参じ、廃墟に近い状態であった山中幸盛ゆかりの寺、浄智院を再興し上池院と改めたが、この時に高野山内に幸盛の墓を建立したと云う。晩年は高野山に隠棲したい希望であったと言われるが果たせなかった。
寛永元年(1624年)山中家先祖伝来の桔梗家紋を崩し、酒樽の口詰を象って、五輪違(イツツワタガエ)の家紋を創案する。俗に五ッ山と言う。寛永8年(1631年)には「山中氏家名相続定書」を記した。
寛永9年(1632年)には自らの肖像画と木像(1945年、戦災にて消失)を作らせている。木像の方は筋骨逞しく、表情は精悍、豪傑風の壮年をしのばせているのに対して、肖像画の方は功成り名をとげた円満な晩年を描いている。辞世の準備であったとされる。正保元年(1644年)高野山にて授戒し、一翁宗円と号す。正保3年(1646年)2月12日に妻・花が82歳にて没す。慶安3年12月5日(1651年1月26日)、81歳で世を去った。
伊丹の本家は七男新右衛門元英が継承し、大阪の事業は善兵衛秀成・又右衛門之政・善右衛門正成の三兄弟が相続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鴻池直文」の詳細全文を読む




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