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鵜殿 長持(うどの ながもち、永正10年(1513年)- 弘治3年9月11日(1557年10月13日))は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。鵜殿長将の子。鵜殿長祐の兄。鵜殿長照、鵜殿長忠らの父。通称、藤太郎。長門守を自称。娘は徳川家康の側室となった西郡局(蓮葉院。養女との説もあり)、松平伊忠室。 三河国宝飯郡の上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)主で、今川義元の妹婿に当たる。弘治3年(1557年)に没して、嫡子の長照が家督を継いでいる。 == 異説 == 『三河物語』では、その没年を永禄5年(1562年)としている。 :永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、織田信長方に身動きを封じられた大高城の解放に協力、功を挙げた。しかし、後続の本隊が信長に襲われ、義元が討たれると、三河の自領に逃げ帰っている。その後も、義元の縁戚であった立場に忠実で、三河における今川氏の家臣として忠誠を尽くした。だが、周辺に在った鵜殿の分家は岡崎の家康に与する事となり、今川方の最前線で孤立していった。永禄5年(1562年)には、家康方の攻撃を受ける。先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、岡崎の本隊が加わった攻城軍には抗いきれず上ノ郷城は陥落。子の長照と共に戦死した。孫の氏長と氏次の兄弟は捕縛され、松平氏により人質とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鵜殿長持」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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