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鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、日本などで行われていた。現在では漁業というより、観光業(ショー)として行われている場合が多い。 また、ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間、スポーツとして行われた。 == 日本 == === 歴史 === 鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある〔 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p50 昭和33年12月25日発行〕。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭』(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と記されている。 延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁により鮎が献上された。そして、それを時の天皇が気に入り、方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料として賜り、鵜飼七郷と読んだ〔「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p51 昭和33年12月25日発行〕。 平治の乱で源頼朝が義朝と敗走する時、義朝とはぐれて長良川河畔をさまよい、鵜飼の長である白明の家に宿り、そこで食した鮎鮨の美味に飢えを癒した。建久3年(1192年)右大将として上洛する際、白明の子を呼び出して恩に報い、また毎年鮎鮨を鎌倉に送るよう命じた〔。 『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録がある。 永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を当て、給与した。 元和元年(1615年)徳川家康が鵜飼を見物し、石焼きの鮎に感賞して以来、江戸城に毎年鮎を献上するのが例となり〔、鵜匠21戸ごとに10両の扶持を給せられた。その献上の際には老中の三判証文を持って継ぎ立て、江戸まで2昼夜で送致した。その後、鵜飼は衰え、文化2年(1805年)には12戸となり、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するとして、再び回復した。 明治維新で一時衰退したが、明治天皇の代にしばしば沙汰があり、大膳職に上納され、明治23年(1890年)から稲葉郡長良村古津その他武儀郡、郡上郡の各村で延長1471間を宮内省の鮎漁の御猟場に編入された〔。 鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度を保つことができる。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって鵜飼は保護されていった。鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わることであったのである。 その一方で、鵜飼は漁獲効率のよい漁法ではないため、明治維新後に大名等の後援を失った鵜飼は減少していき、現在は数えるまでにその規模を縮小している。 現在の鵜飼は、客が屋形船からその様子を見て楽しむというように、漁による直接的な生計の維持というよりは、もっぱら観光事業として行われている。例えば、愛媛県大洲市の肱川で行われている鵜飼は、戦後の昭和32年(1957年)に「大洲観光うかい」として始まったものである。 切手の意匠にもなった。 *昭和28年(1953年)9月15日発売 100円普通切手 *昭和34年(1959年)9月25日発売 10円 耶馬日田英彦山国定公園 三隈川の鵜飼 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鵜飼い」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cormorant fishing 」があります。 スポンサード リンク
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