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鶴ヶ嶺哲生 : ミニ英和和英辞書
鶴ヶ嶺哲生[つるがみね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つる]
 【名詞】 1. crane (bird) (Gruidae family) 
: [みね]
 【名詞】 1. peak 2. ridge
: [せい, なま]
  1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed 

鶴ヶ嶺哲生 ( リダイレクト:鶴ヶ嶺昭男 ) : ウィキペディア日本語版
鶴ヶ嶺昭男[つるがみね あきお]

鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお、1929年4月26日 - 2006年5月29日)は、鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。最高位は西関脇1956年5月場所・1962年9月場所)。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。現役時代の体格は177cm、114kg。本名は福薗 昭男(ふくぞの あきお)。
== 来歴 ==
戦時中は海軍年少兵として海軍相撲で鳴らし、従軍中に同じ海軍所属であり当時既に大相撲を除名されていた玉乃海太三郎の話題が挙がったことで大相撲への興味を抱く。戦後、元前頭2枚目・鶴ヶ嶺道芳こと井筒親方の元に入門、1947年(昭和22年)6月場所で初土俵を踏む。この時はまだ師匠が現役最後の場所であったので、書類上の所属は時津風部屋になっていた。翌場所から、独立した井筒部屋に所属した。独立したばかりの井筒部屋は例外なく弱小で、井筒と同じ鹿児島出身の政治家で当時公職追放中であった迫水久常が部屋の後援会会長に就任して、部屋のための金品や食料の調達に奔走する有様であった〔#相撲 (1961/6) p.88,90〕。ある時、迫水は部屋のあまりの貧乏さに人員整理を考え、見込みの薄い力士は次々と故郷へ帰して再就職させることとし、やがて鶴嶺山の処遇を考えることとなった〔#相撲 (1961/6) p.88〕。ここで、部屋付き親方の甲山が「必ず栃錦でも負かす男になりますから、もう少し面倒みてやって下さい」と頭を下げ、迫水自身は「そうかねえ」と多少半信半疑のところがあったようだが現役続行は決まり、「お前、勝とうと思って相撲とるな。負けまいと思って相撲とれ」と激励〔。迫水の激励に対して「わかるかわからないかわからんけれど、とにかく先生のおっしゃったように、私は負けまいと思って相撲をとります。勝とう勝とうと思わないで、これから負けまいと思って相撲をとります」と、精進を誓った〔#相撲 (1961/6) p.89〕〔こののち迫水は、1961年夏場所のさなかに雑誌『相撲』1961年6月号のための企画で当時大関の柏戸と対談しているが、かつて迫水にはっぱをかけられた鶴ヶ嶺は、6日目にその柏戸を下手投げで負かして柏戸に「完敗」と言わしめた(『相撲』1961年6月号、p.89,193,212)。同じ場所の4日目には若乃花を吊り出しで破っている(『相撲』1961年6月号、p.189,212)〕。
その後、1953年(昭和28年)3月場所で新入幕。本来右四つだったが、相手に合わせてまず左四つになり、右を巻き替えもろ差しになる取り口が開眼した。〔ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』24ページ〕「もろ差し名人」〔このもろ差しを得意とする取り口は後に次男の逆鉾が引き継ぐこととなった。〕と呼ばれ、「栃若時代」から「柏鵬時代」にかけて活躍。技能賞を10回(現在でも最高記録)受賞、栃錦・若乃花朝潮の3横綱を相手によく健闘し、計10個の金星(当時の最高記録)を挙げている。「必ず栃錦でも負かす」と見込んだ甲山の見立ては、間違っていなかった。
得意のもろ差しを生かして好成績を挙げることが多く、1956年昭和31年)1月場所では14勝1敗の好成績を挙げ、優勝同点も記録した。優勝決定戦の相手、横綱・鏡里は同門であり、鶴ヶ嶺が関取になる前は自身の付き人として従えていたことも考えてか、「優勝は半分ずつだ」と優勝パレードで旗手を依頼し、当日1晩だけ優勝旗を鶴ヶ嶺の部屋に貸し出したという。〔
1967年(昭和42年)7月場所を最後に、38歳で現役を引退。幕内在位77場所と通算550勝は、本場所が現在のような6場所制に移行する過渡期であったためもあるが、当時の最多記録だった(通算勝ち星は翌9月場所で横綱・大鵬に更新され、場所数は1980年(昭和55年)11月に、前頭6枚目・高見山によって更新された)。
引退後は年寄君ヶ濱を襲名し、1972年(昭和47年)に井筒部屋から独立して君ヶ濱部屋を創設。その後、同部屋は1977年(昭和52年)12月より名称を変更して井筒部屋となった。また自身の息子3人(鶴嶺山逆鉾寺尾)をすべて関取に、霧島大関に育てるなど名伯楽ぶりを発揮し、役員待遇に抜擢された。特に郷里である鹿児島県出身の力士が非常に多く、「薩摩部屋」と称される程であった。判りやすい丁寧な語り口で解説者とを務めた他、勝負審判長としても物言いの際の場内説明で、「行司軍配は○○にあがりましたが、××ではないかと物言いがつき、協議の結果~」と明快に解説、この口上は現在ではほぼ定型のものとなっている。また、「ただいまの協議についてご説明申し上げます」と最初につけるようになったのも、彼からだとされる。
年寄を停年退職後は鎌倉陶磁器店を経営していたが、晩年の面倒を見ていた内縁の妻の乱脈振り等が原因で、息子との不和も伝えられ寂しい晩年を送った。2002年から一時期、妙見温泉で小料理屋を経営していた。
2006年(平成18年)5月29日午後6時6分、敗血症のため大分県別府市の病院で死去。享年77。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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