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鶴ヶ嶺道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日-1972年3月18日)は、昭和10年代の大相撲力士である。鹿児島県熊毛郡中種子町出身、本名は下家道義。最高位は東前頭2枚目(1942年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、櫓投げ。現役時代の体格は188cm、101kg。引退後は井筒部屋を経営し、多くの力士を育てた。 == 来歴 == 1931年5月場所、井筒部屋から「種子ヶ島」の四股名で初土俵をふむ。相星(4勝4敗)は一度あるが負け越し無しで順調に昇進を重ね、1934年1月場所に新十両。このとき「星甲」を名乗る。種子ヶ島、星甲の四股名はともに先代井筒の横綱2代西ノ海(西ノ海も鶴ヶ嶺同様種子島出身)が若き日に名乗った名で、星甲は師匠星甲から受け継いだものでもあった。1937年5月場所に入幕、翌場所から鶴ヶ嶺と改名した。左四つからの投げや吊りには力があったが、いかんせん最盛期でも100キロそこそこ、四股名に掛けて「やせて鶴のようだ」と喩えられるほど典型的なそっぷ型であったのが、三役昇進を果たせなかった理由でもあった。それでも、1942年1月場所には、初日に大関前田山を、5日目には4連勝中の横綱男女ノ川を倒す殊勲の星をあげた。男女ノ川との対戦成績は2勝2敗と互角だった。 1944年、師匠が亡くなると双葉山道場に身を寄せ、1947年6月場所限りで引退するとすぐに井筒部屋を再興した。そういういきさつもあって、双葉山道場所属の時期にも、立浪部屋の力士との対戦をしている。年寄井筒としては、関脇鶴ヶ嶺をはじめ、星甲、大雄、錦洋などの力士を育て、時津風一門の有力部屋とした。相撲協会の運営面でも時津風理事長の補佐役として期待されていたが、不幸にも病に倒れた。 実弟の下家時久も井筒部屋に入門、薩摩洋時久と名乗って、1942年1月場所、十両に昇進、1場所限りではあったが、兄弟同時関取をなしとげた。 また、息子の義久はベースボール・マガジン社発行の雑誌『相撲』の編集長をつとめた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鶴ヶ嶺道芳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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