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山本 泰(やまもと やすし、1945年7月7日 - )は、日本のアマチュア野球選手、学生野球指導者、プロ野球スカウト。旧姓は鶴岡(つるおか)〔。 父は南海ホークス監督の鶴岡一人〔鶴岡一人、山本泰 - 『プロ野球2世代写真展 「野球一族」 いにしえ編』(時事通信社ウェブサイト内)〕。弟はミズノ常務取締役の鶴岡秀樹。 == 経歴 == 山口県生まれ〔朝日新聞、1978年8月21日付朝刊 (13版、3面)〕。大阪府の大阪市立阪南中学校を卒業後、神奈川県の法政大学第二高等学校に進学〔。の第43回全国高等学校野球選手権大会に出場〔。法政大学法学部に進学〔山本泰 - 卒業生・在学生の声 - 法政大学通信教育部公式サイト内インタビュー(2013年当時取材…※リンク先より、今年68歳になるという旨の発言あり)〕。同野球部では外野手としてプレーし、度には主将を務め主に3番を打ち、秋季リーグ戦で優勝した〔。1学年下には田淵幸一、山本浩司(のちの山本浩二)、富田勝の「法政三羽烏」がいた。 同年11月のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから12位指名される〔が、これは監督である父がプロ入りを断念させるためにあえて指名したものであった〔。 その後社会人野球の日本楽器〔、日拓観光〔でプレーし、にPL学園高校野球部監督へ就任〔。の第58回全国高等学校野球選手権大会で準優勝〔、の第60回全国高等学校野球選手権大会は〔逆転のPLで初優勝〔。常勝チームを築いた。このころまで鶴岡姓だったが、のちに母親の姓である山本姓に代えている〔週刊ベースボール増刊『大学野球』1990年春季リーグ戦展望号によると、実生活では先に変えていたとのことで、子供が戸惑わないよう野球関係でも山本姓で統一した。〕。の夏を最後に、中村順司へ後を譲り退任〔元PL学園・中村順司編(4) 選手との交換日誌契機に“実力優先”廃止 - 『ZAKZAK』(夕刊フジニュースサイト)内連載記事『高校野球 名将列伝』2014年8月24日付〕。 PL学園退任後は大阪産業大学高校の野球部監督を務め〔から任期4年で法大監督に就任〔朝日新聞、1989年11月30日付朝刊 (14版、23面)〕。その間、法大監督就任のため、同通信教育部法学部法律学科へ再入学し、学士を取得した(1977年卒業)〔。法大監督在任中に東京六大学リーグ戦の優勝は果たせなかったが、の秋季リーグ戦は立教大学と優勝決定戦まで縺れ込む熱戦を繰り広げたほか、の春季リーグ戦では明治大学と「勝ち点を挙げた方が完全優勝」という展開まで持ち込んだ。秋季リーグ戦終了後に任期満了で監督を退任し、後任に山中正竹が就任した。 その後は大阪近鉄バファローズのスカウトとしてプロ球界に活動の場を移し〔、岩隈久志などの獲得に尽力した。暮れの同球団解散後にシアトル・マリナーズのスカウトへ就任した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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