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鶴嶺八幡宮 : ミニ英和和英辞書
鶴嶺八幡宮[つるみね はちまんぐう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つる]
 【名詞】 1. crane (bird) (Gruidae family) 
: [みね]
 【名詞】 1. peak 2. ridge
: [やつ]
 (num) eight
八幡 : [はちまん]
  1. (adv,n) God of War 2. Hachiman 
八幡宮 : [はちまんぐう]
 (n) Shrine of the God of War

鶴嶺八幡宮 : ウィキペディア日本語版
鶴嶺八幡宮[つるみね はちまんぐう]

鶴嶺八幡宮(つるみね はちまんぐう)は、神奈川県茅ヶ崎市浜之郷にある神社。別名は鶴嶺八幡社。
相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い〔神奈川県神社庁による〕。また鶴嶺八幡宮によると、源氏関東へ進出する際、創建した最初の氏社という。
== 由緒 ==
長元3年(1030年9月河内国大阪府羽曳野市)を本拠とする源頼信の子源頼義下総の乱鎮定の折り、京都にある石清水八幡宮懐島八幡宮として勧請した(宇佐神宮を勧請したとも)のが始まりであるという。後に源氏が現在の場所に分祀した。
天喜3年後(1055年)の前九年の役の際に源頼義が祈願したに勝利を収めると、康平6年(1063年)、戦勝に報いるため懐島八幡宮を鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である元八幡を建立したという。その後、応徳2年(1085年)、源頼義の嫡男である八幡太郎義家が領地を寄進し、懐島郷の隣の浜之郷に鶴嶺八幡宮を創建した。この時期に元八幡の旧社であることから懐島八幡宮は本社宮と改称したという。
将軍源頼朝治承年間に領地を寄進し、また建久年間にも頼朝は肥後国有為庄に鶴嶺八幡宮に700貫を寄進し、懐島権守平景能に修復を命じた。
建久2年(1191年)、大庭御厨の領主大庭景義が大仏殿や三重塔等を建て、鶴嶺八幡宮を再興した。同年、西隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。
古くは別当寺の常光院に十二坊の宿坊が存在したが、各地に散らばった後に廃止となる。江戸時代正保年間、常光院住職の朝恵が地頭・山岡景信と相計りで荒れ果てた社殿を修復した。またこのとき参道を整備したという。
慶安2年(1649年):3代将軍徳川家光が本村に7石の朱印地を与えた。江戸幕府崩壊後、明治時代になると神仏分離令により常光院が復飾し、祠掌となる。
その後、西側に隣接した佐塚大明神を合祀し、佐塚大明神の祭礼の浜降祭を主宰するようになった。下記の「年表」の1906年の項参照。
== 祭神 ==
*応神天皇
*仁徳天皇
*佐塚大神
合祀
*菅原道真(鶴嶺天満宮)
== 年表 ==
*長元3年(1030年9月源頼義下総の乱を鎮定のため懐島郷(鶴嶺八幡宮のある場所)矢畑村に源氏の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をし懐島八幡宮を創建。(別に宇佐八幡宮勧請説もある)。
*康平6年(1063年):鎌倉に元八幡に遷したが、懐島八幡宮は本社八幡と称した。
*治承年間(1177年 - 1184年):源頼朝が懐島郷の領地を寄進した。
*建久年間(1190年 - 1198年):肥後国有為庄に700貫を寄進。
*建久2年(1191年):大仏殿や三重塔等を建て、大庭景義鶴嶺八幡宮を再興する。
*建久2年(1191年):鶴嶺八幡大菩薩の隣りに伊予三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。
*弘安4年(1281年):蒙古退散の祈祷をし、閏6月30日の晦日に勝利したのを記念して「晦日祭」を始め、これが八幡宮と佐塚明神の例祭となった、と現在の鶴嶺八幡宮は説明している 〔鶴嶺八幡宮 御由緒 。〕。しかし、1876年(明治9年)以前には浜でのみそぎの神事(後の浜降祭)は6月29日に行われていた。1841年・1876年参照。
*永禄元亀年間(1558年 - 1573年):戦火に見舞われ、仏堂が焼失する。
*天正18年(1590年):小田原城落城とともに社領を失い、荒廃する。
*正保年間(1644年 - 1648年):別当寺・常光院住職の朝恵、社殿を修復・再興する。
*慶安2年(1649年):3代将軍徳川家光、本村に七石の朱印地を寄進。朝恵はこれを記念して南大門馬場420間(約764メートル)の左右に松を植えた。
*天保年間(1830年 - 1843年):本社宮を南に移す。
*天保12年(1841年):この年に幕府の昌平黌地理局の編纂した「新編相模国風土記稿」に佐塚明神が6月29日に浜で(みそぎ)を行っているという記述がある。
*明治元年(1868年):太政官達(官庁に対する訓令)は権現、天王、八幡大菩薩などの仏教的神号を禁じた。「佐塚明神」は「佐塚大神」(さづかのおおかみ)、「鶴嶺八幡大菩薩」は「鶴嶺八幡」となる。また神仏分離により西側にあった別当寺の常光院を廃寺にし、持僧は神職に転身する。再興の租の朝恵上人の墓も廃す(戦後に復興)。
*明治4年(1871年):太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が制定された。
*1873年(明治6年):前々年の太政官布告によって村社となった鶴嶺八幡宮は、国幣中社となった寒川神社摂社となる。
*1876年(明治9年):旧暦の6月29日に行われていた「みそぎ」の神事を新暦の7月15日とし、名称も「浜降祭」へと変更。県令(現在の県知事の役)野村靖宛の申請書には農繁期を避ける旨が記されている。この年まで寒川神社6月30日鶴嶺八幡宮(佐塚大神)は6月29日浜降祭を行っていた。
*1877年(明治10年):鶴嶺八幡宮寒川神社摂社から解放され、浜降祭を単独で行うようになる。(場所は同一か不明)
*1878年(明治11年):浜降祭参加記録2社。寒川神社鶴嶺八幡宮のみか不明。これ以前の参加社数記録無し。
*1906年(明治39年):12月、内務省神社合祀令によって一村一社運動を起こし、明治末から大正初期にかけていわゆる神社整理を推進する。少なくともこの時期までに佐塚大神(旧、佐塚大明神)は鶴嶺八幡宮(旧、鶴嶺八幡大菩薩)に合祀され、旧佐塚大明神の浜降りの行事は鶴嶺八幡の主催となる。その時期は1873年(前記当該年参照)かそれ以前である可能性もある。
*1923年大正12年):鶴嶺八幡宮は改めて浜降祭に再参加するようになる。
*1927年昭和2年):本社宮を現在地へ戻す。
*1934年(昭和9年)9月15日社格制度制定で郷社となる。
*1969年(昭和44年)8月15日:参道の松並木が茅ヶ崎市の史跡・天然記念物に指定される。
== 祭事 ==
*浜降祭(第3月曜日-海の日
*晦日祭6月30日
*放生会9月15日

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鶴嶺八幡宮」の詳細全文を読む




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