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鶴澤〔「鶴澤」は「鶴沢」の文字が一般的に用いられているが、子孫が鶴澤姓を名乗っていることを鑑み、「鶴澤」で立項している(野口(2003)p.20)。〕 探山(つるさわ たんざん、1655年(明暦元年)〔『古画備考』に、「享保十四己酉正月二日 法眼探山七十五歳」款記を持つ作品の存在が記されていることから逆算。〕または1658年(万治元年)〔『綱平公記』、『御用日記』(陽明文庫蔵)、『宣下略案』(宮内庁書陵部蔵)の記述から逆算。〕 - 1729年8月7日(享保14年7月13日〔善導寺の過去帳の記載より。〕))は、日本の江戸時代前期から中期に活躍した狩野派の絵師。名は守見、良信、兼信。探山は号で、別号に幽泉、探春、探川など。狩野探幽の門人で、後に京都へ移り鶴澤派の祖となった。 == 略伝 == 出身は江戸とも京都とも言われるが、後に京都で活躍したことを踏まえれば後者の可能性が高い。探幽最晩年の弟子で、探幽四天王の中に探山が入ることもある。元禄年間に東山天皇の勅書により上洛、それまでの探川の号を探山に改める。1700年(元禄13年)に法橋位を得る。1708年(宝永5年)に完成した第五皇子・慶仁親王(中御門天皇)の御所障壁画を制作する。その後も宝永度の内裏障壁画や、1713年(正徳3年)の近衛尚子女御御所障壁画、小浜千石荘障壁画などに彩管を振った。こうした禁裏御用絵師としての活躍が認められてか、晩年の1724年(享保9年)法眼に叙されたが、その5年後に死去。享年75。墓は京都の善導寺。息子の鶴澤探鯨が鶴澤派を継いだ。弟子に橘守国など。 壮年期の御所障壁画が殆ど失われたため、画名の割に現存作品数は多くない。画風は探幽によく似ており、余白を広めの取り、構図を簡略化し、少ない筆致で対象を描き出している。そのため、落款の「山」の字を「幽」に書き換えて探幽画とする者がいたという逸話が残り〔『増訂古画備考』四十二狩野門人譜「狩野探山伝」。〕 、実際そうした改変の跡が認められる作品も残っている〔榊原悟 『狩野探幽 御用絵師の肖像』 臨川書店、2014年6月、p.78、ISBN 978-4-653-04085-9。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鶴澤探山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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