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鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日 - 2006年(平成18年)7月31日)は、日本の社会学者。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などでも知られる。 == 来歴・人物 == 1918年(大正7年)東京府(現・東京都)生まれ。元東京工業大学教授で、アメリカのプラグマティズムの紹介や思想の科学研究会、ベ平連の設立者として知られる哲学者鶴見俊輔は弟〔『日本の有名一族』、177頁、179頁。〕。祖父は南満州鉄道初代総裁後藤新平〔、父は元厚生大臣鶴見祐輔〔。妹の夫は法学者の内山尚三〔『日本の有名一族』、179頁。〕。父方の従弟にベ平連の中心メンバーだった人類学者鶴見良行〔『日本の有名一族』、177-179頁。〕。母方の従兄にインターナショナルの訳詞者となった共産党系演劇人佐野碩と武装共産党時代の指導者佐野博(碩と博の叔父が、元日本共産党委員長佐野学)。さらに母方の一族には講座派の論客平野義太郎がいるといったエスタブリッシュメント家庭に育つ。 1939年津田英学塾(現・津田塾大学)を卒業し、渡米、1941年(昭和16年)にヴァッサー大学に哲学修士号を取得した。1942年(昭和17年)に日米交換船で帰国。戦後は共産党員として活動した時期もあった。1946年(昭和21年)に鶴見俊輔、丸山眞男などのメンバーと「思想の科学」を創刊。この頃、共産党に入党し、党が所感派と国際派に分裂した1950年(昭和25年頃)まで党員だった〔鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』新曜社、2004年(平成16年)、291~292頁。鶴見俊輔の証言。〕。1952年(昭和27年)に、「生活綴方」運動の指導者国分一太郎と出会い、「日本作文の会」の第一回作文教育全国協議会に招かれる。『山びこ学校』などの綴り方教育の実践報告に触発され、会の席上で提言した「自己を含む集団の研究」の方向性を模索すべく、同年牧瀬菊枝らとともに「生活をつづる会」を立ち上げる。四日市の東亜紡織泊工場にて澤井余志郎を中心とした女子工員らのサークル「生活を記録する会」に出会い、その交流はやがて『母の歴史』『仲間のなかの恋愛』の出版、また東京演劇アンサンブル(劇団三期会)による集団創作劇『明日を紡ぐ娘たち』(広渡常敏脚本)への公演に結実する。1962年(昭和37年)に再びアメリカ留学、そしてブリティッシュコロンビア大学助教授をつとめたのち、1966年(昭和41年)にプリンストン大学社会学博士号を取得。博士論文は「社会変動と個人」(英文)として出版された。アメリカ、カナダでは、写真婚でカナダの日本人移民の元に嫁いだ女性たちの生活史などが知られている。 1969年(昭和44年)に上智大学外国語学部の教授、同大学の国際関係研究所所員(1969年-1989年。1982-84年には同研究所所長)を経て、1989年(平成元年)に定年退職した。八王子大学セミナーハウスの運営委員や市井三郎、桜井徳太郎などと「思想の冒険」グループ(他に、宇野重昭、内山秀夫、色川大吉、三輪公忠、菊地昌典、山田慶児)をつくり、水俣病や近代の超克などの共同研究を行った。それぞれに成果が刊行されている。 またこれらの調査・研究の中で試みられてきた「内発的発展論」への理論的構築の過程で柳田國男の仕事や南方熊楠の手がけた粘菌研究および「萃点の思想」にも着目。また男女、大人と子ども、人と動物から、世代、時代を超えた共生などにも自らの理論構築の中で大胆なアプローチを試みるようになった。実現には至らなかったが日本の国連代表部公使の候補になったこともある(結局、選ばれたのは緒方貞子だった)。 1995年(平成7年)に脳出血で倒れて左片麻痺となり、車椅子生活を送りながら〔リハビリの過程は、専門医の上田敏・大川弥生との共著 『回生を生きる 本当のリハビリテーションに出会って』(三輪書店、1996年、増補版2007年)に詳しい。〕も、これまで書かれた著作をまとめた『鶴見和子曼荼羅』(全9巻)や、生涯の中で関わりのあった様々な人物や学問上の関心が照応する相手との対談をまとめた『鶴見和子 対話まんだら』というシリーズを藤原書店より刊行している。和歌や日舞、着物などの趣味の豊かさでも知られ、その方面の随筆、写真本などの刊行物もある。 2006年(平成18年)7月31日に大腸がんのため88歳で没した〔鶴見は、脳出血で半身麻痺になってから、京都府宇治市の介護老人ホームで、リハビリ生活を続けてきていた。だが、2006年(平成18年)4月に施行された「リハビリ医療の日数制限制度」により、リハビリを打ち切られていた。「日数制限制度」に反対している、自らもリハビリ患者である多田富雄は「鶴見さんの死の直接の原因は癌であっても、リハビリ制限が死を早めたことは間違いない」と記している。また鶴見も、生前に藤原書店の季刊誌『環 第26号』でリハビリ制限制度について、「これは費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。この老人医療改訂は、老人に対する死刑宣告のようなものだと私は考えている」と記述している。多田富雄『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』(青土社、2007年)より〕。生涯独身。弟の俊輔は「和子はおやじを非常に愛していた。率直に言って、生涯で一番愛した男なんだ。「父の娘」というのがいるでしょ。アナイス・ニンとか森茉莉とか、その型なんだよ」〔鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年)p.50〕と述べている。 「萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を」と生前に詠んだ歌にふさわしく、最後まで実践と学問と道楽をひとつの生き様として華やかに貫いた。 2007年(平成19年)7月28日に新宿中村屋本店で催された一周忌の集いには、美智子皇后も臨席した〔季刊誌「環」第31号(2007年11月)より〕。鶴見和子本人も生前、今上天皇と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた〔『複数の東洋/複数の西洋――世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)より〕。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している〔朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鶴見和子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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