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鶴谷氏 : ミニ英和和英辞書
鶴谷氏[つるがやうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つる]
 【名詞】 1. crane (bird) (Gruidae family) 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

鶴谷氏 : ウィキペディア日本語版
鶴谷氏[つるがやうじ]
鶴谷氏(つるがやうじ、つるがやし)は、日本の陸奥国宮城郡鶴谷(現在の宮城県仙台市宮城野区鶴ケ谷)を本拠とした武士の一族である。鶴谷は、読みが同じで鶴ヶ谷とも書く。戦国時代には笹森城を本拠として留守氏国分氏に服属し、江戸時代には仙台藩に仕えたが、1716年に断絶した。
== 戦国時代 ==
宮城郡の戦国時代は、その北半分を留守氏、南半分を国分氏が占め、両者が対立抗争したが、最終的に両者とも伊達氏の勢力下に組み込まれるという経過をたどった。鶴谷氏は留守・国分両者の家臣として現れる。
戦国時代に書かれた『留守家旧記』では、留守の被官として鶴谷が挙げられ、他の13氏とともに宮侍とされる。彼らは月の1日と15日に必ず塩竈神社に参詣し、御幣を取ったという〔『仙台市史』第8巻(史料編1)史料番号209、83頁。〕。そして、留守氏家臣を並べた『留守分限帳』に、「鶴かやふせん」(鶴谷豊前)が見える。御館の人数・宮人の人数・里の人数に家臣を三分したうちの、里の人数の一人としてあり、留守氏にとって縁遠い、外様のような地位であったようである〔『多賀城市史』第1巻528頁。〕。6300刈と2貫200文の地をあわせて14貫800文を領していた〔刈は土地の収穫高の単位で、原文はひらがなの「かり」。また原文に「文」はなく、「二貫二百地」「十四貫八百分」。『留守分限帳』は『仙台市史』第8巻(史料編1)、資料番号210、91頁。また『仙台市史』資料編1(古代中世)資料番号103、201頁「留守分限帳(里之人数)」にもある。〕。単純な比較はできないが、江戸時代初めに作成された正保郷帳に見える鶴ヶ谷村の貫高は37貫805文である〔『仙台藩の正保・元禄・天保郷帳』22頁。〕。
他方で留守氏のライバルであった国分氏の国分宗政は、林光坊快尊・鶴谷大蔵尉宗重・松森金内正久と連名で、奥州国分郡内の者が高野山詣でをするときにの宿所を竹南院に指定した証文を天文11年(1542年)7月11日に発行した〔『仙台市史』第8巻(史料編1)資料番号165、60-61頁。『仙台市史』資料編1(古代中世)資料番号291、384頁「国分宗政外三名連署宿坊証文写」。「大蔵尉」は律令官制にない官名である。〕。国分郡は陸奥国で他に知られない郡名で、宮城郡のうち国分氏の支配下を呼んだものであろうから、鶴谷宗重は国分氏の家臣で重きをなしていた人物と考えられる。史料的な信頼度は高くないものの、『国分氏系図』には国分宗政の妹が鶴谷盛勝の室と記されており、国分・鶴谷の結び付きを示唆する〔『笹森城跡発掘調査報告書』7頁。〕。
鶴ヶ谷は国分氏と留守氏の勢力が接する地点で、同地で両氏の合戦があったことも知られる。鶴ヶ谷氏は、両方に服属するか〔『笹森城跡発掘調査報告書』7頁。〕、留守氏から国分氏にくらがえするかして、戦国末までに国分氏の家臣になったのであろう。江戸時代に編まれた『仙台領古城書上』は、笹森城について、天正年間まで鶴谷治部が居住したと伝える〔『仙台領古城書上』、仙台叢書第4巻115頁。『仙台領古城書立之覚』、『宮城県史』第32巻120頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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