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鷲尾愛宕神社(わしおあたごじんじゃ)は、福岡県福岡市西区の愛宕山(旧名 鷲尾山)にある神社である。旧社格は郷社で、現在は神社本庁の別表神社。単に「愛宕神社」とも呼ばれる。 伊耶那岐尊・天忍穂耳尊を祀る鷲尾神社(鷲尾権現)と、火産霊神・伊耶那美尊を祀る愛宕神社(愛宕権現)が明治時代に合併したものである。 眺望がよく、百道浜地区にも近いことから、百道浜地区が写っている広告等はこの愛宕神社付近から撮影していることが多い。また、隠れデートスポットでもある。 ==歴史== 神社の創始は景行天皇2年(西暦72年)、鷲尾山に伊耶那岐尊・天忍穂耳尊を祀ったのが鷲尾神社(鷲尾権現)の始まりとされる。鷲尾権現は英彦山権現と同神で、里人の説に曰く「初め英彦山権現自体も鷲尾山に祀られ、後に英彦山に移られた」ともいうが確たることは不詳である。 天暦9年、姪浜の住侶・浦左京という者が神社の破損を憂い、社殿改築の浄財を募ると、寄進の材木が山をなし崇敬者の労役奉仕が後を絶たなかったとされる。やがて鷲尾神社は鷲尾山の地主神として天台修験東林寺の社僧が管理するようになった。 鎌倉時代に入り元寇が起こると、幕府は博多に鎮西探題を設置し玄界灘を見渡せる当山に城砦(鷲尾城・探題城・姪浜城・浦城)を築城した。やがて後醍醐天皇の討幕運動が活発になると博多の探題館は九州の諸将に攻められて陥落。この際に鷲尾山の探題城も焼亡した。一説には探題・赤橋英時が自刃したのもこの探題城であるといわれる。南北朝時代にも探題城には一色氏や渋川氏などが在城したが、度重なる兵火に見舞われた。このため社領・社宝・文書は失われるなど鷲尾神社も衰退し、ただ東林寺が残るのみであった。 江戸時代、福岡藩2代藩主黒田忠之が、黒田騒動を愛宕権現の霊験により乗り切ったことに感謝して、寛永11年(1634年)、京都の愛宕山白雲寺(現在の愛宕神社)より愛宕権現(伊耶那美尊・火産霊神)を勧請し、鷲尾権現のある鷲尾山に祀り、20余石4人扶持、山林1万坪、預かり山4万坪の社領が藩より奉祀された〔『愛宕神社物語』〕という。これにより鷲尾権現は愛宕権現の境内末社とされた。ともに真言宗円満寺によって管理され、宝暦年間(1751年 - 1764年)には東林寺も廃止された。山自体も愛宕山と呼ばれるようになった。 明治34年(1901年)9月27日、「鷲尾神社は末社となすべき神社にあらざる」を以って両社を合併して鷲尾愛宕神社とした。大正2年(1913年)3月19日に村社〔『福岡縣神社誌』〕に定められ、昭和6年(1931年)7月10日には郷社〔『福岡縣神社誌』〕となる。戦後は神社本庁の別表神社に加列した。現在でも火徳の神、願掛け(断事)の神として遠近の参詣多く、正月3ヶ日には70万人〔『愛宕神社だより』〕もの参拝があるなど、福岡県内随一の参拝者数の神社である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鷲尾愛宕神社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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