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鷲津砦(わしづとりで)は、名古屋市緑区にあった砦。織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。 == 沿革 == 大高城の北東約 700mの丘陵上に築かれ、東西 25m、南北 27mの規模だったという〔『寛文村々覚書』によるという(名古屋市教育委員会による現地説明板による)。〕〔標高35mの丘上に、東西約35m、南北40mの規模だったとも言い、堀もあったという記録がある()〕。 尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした。そこで信長は、鳴海城に対して丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。鷲津砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「鳴海の城へ御取出の事」〕。 永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)早朝、尾張に侵攻した今川軍は鷲津砦と丸根砦に攻撃を開始した。その報せを受けた信長は清洲城から出陣したが、熱田神宮に差し掛かった時には、すでに両砦は落城したらしく、煙が上がっていたという〔『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」〕。このとき鷲津砦を攻撃した今川方の武将は『武徳編年集成』等の後世の史料では朝比奈泰能とされている〔現地説明板も泰能としている。〕が、泰能は弘治3年(1557年)に死去しているため実際は子の泰朝で、親子を誤ったものと見られている。 その日の桶狭間の戦いで義元は討ち死にして今川軍は尾張から撤退し、今川氏から独立した三河の松平元康との間に清洲同盟が成立したため、鷲津砦が再び使われることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鷲津砦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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