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鷲頭 弘忠(わしず ひろただ)は、室町時代中期の長門守護代。初め盛範と名乗ったが、後に弘忠と改めた。 大内盛房の三男鷲頭三郎盛保を始祖とする大内氏の一族で、周防国鷲頭庄(現在の下松市近辺)を所領とした。弘忠はこの一族の6代目にあたる。 == 概要 == 永享4年(1432年)、大内持世によって長門守護代に補され、長門国深川城(現在の長門市殿台)に居城した。長門守護代はそれまで大内氏の重臣内藤氏らが任じられており、信頼の厚さが窺える。 嘉吉元年(1441年)、大内持世が死亡し、教弘が跡を継いだが、弘忠と教弘は不仲だったと考えられ、文安3年(1446年)4月15日に守護代の任を解かれた。一説には、大友氏や少弐氏との戦いで活躍し、筑前国粥田荘(仁和寺領)の代官を務めるなど九州での地盤を広げ、文武両面で有力な武将として勢力を拡大したことが警戒されたとも言われている〔鷲頭弘忠と上杉憲実と「大寧寺」 - 山口きらめーる(2012年9月28日 237号)山口県広報広聴課〕。また、粥田荘は本家は仁和寺、領家は高野山金剛三昧院が占める重層支配の構造となっていたが、弘忠が仁和寺から直接代官に任じられる一方で、領家の金剛三昧院が任じた代官を少弐氏と内通した疑いで追放して同院の権利を没収したことが教弘の不快感を買ったともいわれている〔藤井崇『室町期大名権力論』同成社、2013年、P216〕。その後、弘忠は本拠深川城の周辺に支城を築き、教弘の攻撃に備えた。 弘忠は当初、教弘が響灘の深川湾へ水軍をもって侵攻すると考え、亀山城(現在の長門市市役所の裏山)を築いて備えた。しかし、いざ攻撃が始まると、教弘は現在の美祢市方面から侵攻し、鷲頭氏家臣の刺賀氏が守る堅田城や沢差城などを落城させ、搦手から深川城に迫った。 文安5年(1448年)2月17日、遂に深川城は陥落し、弘忠はもとより、その子息弘貞を含む一族郎党全てが殺されたという。 なお、大内氏の菩提寺である大寧寺は彼が開基したもので、弘忠の墓が現在でも残る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鷲頭弘忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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