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鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)は、和歌山県日高郡日高町と有田郡広川町の境にある峠。標高360メートル。日高町指定史跡(2011年〈平成23年〉3月15日指定)。 == 歴史 == 鹿ヶ瀬峠の史料上の初出は平安時代にさかのぼる。『吉記』承安4年(1174年)9月26日条に「鹿背原」にて昼養を摂ったとの記述が見られるほか、山名としては平安時代中期から見え、増基の紀行文『いほぬし』に「しゝのせ山」〔「角川日本地名大辞典」編纂委員会編514 〕とあり、『大日本国法華経験記』所収の「紀伊国宍背山に法華経を誦する死骸」には、比叡山東塔の円善なる僧が宍背山で捨身行の末に髑髏となった後も法華経六万部の誦経を続けたとの奇談が記され、後に『今昔物語』『古今著聞集』『元亨釈書』に再録された〔平凡社編494 〕。 院政期には熊野古道の難所の一つとして知られ、熊野参詣記にたびたび登場する。『大御記』永保元年(1081年)9月28日条に「戌剋着鹿背山中宿草庵」とあるのをはじめとして、『中右記』天仁2年(1109年)10月18日条には、山道の様子を「其路嶮岨、心力巳尽」で、鹿の鳴き声があちこちから聞こえたと記し、「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)建仁元年(1201年)10月10日条にも同様の「崔嵬嶮岨」との記述が見られ、深山幽谷であったさまを伝える〔。 このような難所であったため、鹿ヶ瀬峠は紀南と紀北の境界であるだけでなく、紀南への戦略的要衝となり、中世には付近に鹿ヶ瀬城(ししがせじょう、鹿瀬城とも)という山城が築かれた。鹿ヶ瀬城について、『紀伊続風土記』は『太平記』を根拠に熊野八荘司の一人、鹿瀬荘司なる未詳伝の人物が築いたとし、『玉葉』治承4年(1180年)9月3日には、源氏方に寝返った湛増が「切塞鹿背山」とある〔「角川日本地名大辞典」編纂委員会編515 〕。また、『太平記』には延文5年(1350年)の南朝方蜂起に際して、当地の湯河荘司は北朝に与して「鹿ノ瀬・蕪坂」に布陣したとある〔ほか、永享10年(1438年)に南朝方軍勢が当城に拠った際には、守護畠山尚順以下の軍勢2800騎ほかが攻め入り、南朝方を敗走せしめた〔。 近世には元和年間(1615年-1624年)頃に峠に茶屋が設けられたが、明治頃に廃道となってからは廃絶した。石垣跡と平坦面がその名残を伝えるが、一帯は黒竹の藪に覆われている〔。日高町側の麓にあった金魚茶屋の付近には明治中期まで3件の民家があったが後に退去し〔日高町誌編集委員会985 〕、峠登り口付近の原谷集落も往来の旅人の減少により衰微していった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿ヶ瀬峠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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