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鹿取 義隆(かとり よしたか、1957年3月10日 - )は、高知県香美市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 現役時代は巨人、西武で中継ぎ・抑えとして活躍した。からはスポーツ報知で野球評論家、RFラジオ日本で野球解説者を務める。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 高知商では2年の夏に背番号10の控え投手として甲子園に出場〔。2回戦で山倉和博を擁する東邦高校、3回戦で盛岡三高を破ってベスト8に進出したが、金光興二や達川光男を擁する広島商に2対7で敗れた。この試合では鹿取も救援で登板し、失点している〔週刊ベースボール、2001年2月5日号、P.44〕。3年夏は高知県大会の3回戦で同年の南四国大会を制した高知高校に0対2で敗れ、甲子園出場はならなかった。 高校の先輩が数名在籍していた事もあり、野球部のセレクションを受けて明治大学に進学した〔。同期には高橋三千丈や豊田誠佑がいた。1年の春から打撃投手を務め、2年春の六大学リーグ戦からベンチ入りしている。監督島岡吉郎の下で毎日500球を投げ込むほどの猛練習を重ね、高橋とともに投手陣を支えた。の3年春の早稲田大学との3回戦では6回から高橋を救援し、道方康友と延長15回まで投げ合ってチームはサヨナラ勝ちを収めた。この試合直後に島岡監督から泣きながら投球を賞賛され、初めて島岡一族の一員になれた事を実感したという〔週刊ベースボール、2001年2月5日号、P.45〕。同年は日米大学野球の日本代表に初めて選ばれ、第5戦で先発している。 一学年上の江川卓を擁する法政大学などに阻まれリーグ戦優勝は遠かったが、の4年春は4回戦までもつれた法政との勝負を制してついに優勝。鹿取自身も、右手中指のマメを焼き潰したと言われるほどの熱投を見せた〔。同年の日本選手権は決勝で専修大学を完封して優勝している。前年に続いて日米大学野球の日本代表に選出され、4試合に登板したものの先発した第5戦では敗戦投手となった。六大学リーグでは通算58試合に登板して21勝14敗、防御率1.89、219奪三振の成績を残した。 卒業後は社会人野球の日本鋼管に進む予定で、江川事件により巨人がボイコットした同年11月22日の同年のドラフト会議ではどの球団からも指名を受けなかった〔週刊ベースボール、2001年2月12日号、P.44〕。しかしドラフト会議直後に巨人のスカウトの沢田幸夫から旧知の島岡監督に獲得の打診があり、プロ入りに反対していた祖父からも高知での家族会議を経て承諾を得て、ドラフト外で入団が決まった〔。なお、中日に1位指名で入団した高橋と同等の契約条件を巨人は提示したという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿取義隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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