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鹿島 守之助(かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、外交史研究家。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。参議院議員を18年間務める。第1次岸内閣の国務大臣北海道開発庁長官。文化功労者。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 == 来歴・人物 == 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。詩人でもあり篤農家でもある父敏夫は、撫松(ぶしょう)山人と号して文人墨客と交わり、関西詩壇に名声を得たが、名利や世俗のことには超然として孤高を愛し、それを誇りとした人物」という。 永富家は浄土真宗本願寺派亀山本徳寺と江戸時代から縁を築き、守之助も本徳寺の信徒総代を長く務めた。 龍野中学、京都の第三高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、加瀬俊一などがいる。 1922年(大正11年)、外交官としてヨーロッパに赴く船上にて鹿島組社長鹿島精一、鹿島組重役永淵と出会う。鹿島精一は、永富守之助の人柄に惚れ込み、以降猛烈に永富守之助獲得に動く。はじめは養子だということで相手にしなかった。ある日永淵がたずねて来たとき「私は役人を辞めて政治家になりたい」と言ったら「そりゃけっこうですな。鹿島組の事業には、政治が必要ですよ」と言う。とうとう決心して婚約が成立した。〔『私の履歴書 経済人7』 pp. 303-306〕 1927年(昭和2年)2月、鹿島精一長女卯女と結婚し、鹿島姓となる。以降、鹿島組(当時)を率いる指導者となる。 ドイツ駐在中にパン・ヨーロッパ連合の指導者リヒャルト N. 栄次郎・フォン・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と親交を開始する。クーデンホーフ=カレルギー伯爵は自分がヨーロッパをまとめてゆくから君はアジアで、この2つの地域は協力して真の世界平和を実現しようではないかという壮大な話を鹿島に聞かせ、それを聞かされた鹿島は大感激したようである。鹿島は1930年1月に外務省を退官して翌月に立候補した衆院選挙、1942年第二次世界大戦下の翼賛選挙、ともに落選。落選後間もなく大政翼賛会調査局長として翼賛体制に加担。鹿島は戦後、大政翼賛会調査局長を「断り切れずに引き受けた」、「もとより私は平和主義者であり、大東亜戦争についてはその前に、極力これを阻止しなければならないと主張した。しかし、当時私は、一旦戦争が起こった以上は ...」と自己弁護に腐心することになる。彼はパン・アジアを戦時中、大東亜共栄圏と同一のものとして語り、戦後の一時期、アジア・太平洋共同体論になり、再びパン・アジアに収まる。大東亜共栄圏に関して鹿島は、「大東亜共栄圏の結成は、方向としては正しかったのであるが、これが軍部の独走にゆだねられたため侵略主義の過失を犯すことになり ...」、このように大東亜共栄圏は悪くなく軍部が悪かったのだと回想している〔。 戦後公職追放にあい、追放解除後、1953年の参院選挙で当選し、初めて国会議員になる。この当選(自由党)で3期・4期の参議院議員を務め、1959年の改選の当選(自民党)で5期・6期を務め、1965年の改選に当選し(自民党)、7期・8期を務めて1971年7月引退。 国際平和に貢献があった人物に「鹿島平和賞」を表彰するなど文化的活動でも知られる。鹿島平和研究所が明治百年記念事業として企画し発刊した『日本外交史』全38巻により文化功労者の表彰を受けた。拓殖大学名誉教授、国際法学会理事、日本国際問題研究所会長、日本国際連合協会理事、経団連理事等を歴任。 経営者としての手腕は「鹿島中興の祖」といわれるほどであり〔、「事業成功秘訣二十箇条」はよく知られる社訓である。鹿島建設は日本の原子力発電における半世紀の間に原子力関連工事のおよそ半数を手掛け「原子力の鹿島」の名をほしいままにし〔、施行した原子炉は2010年時点において日本全国20か所61基(建設中・廃止中含む)のうち38基にのぼる(原子燃料サイクル施設除く)。その先駆的な取り組みは1950年代に鹿島守之助社長による熱意で開始した日本原子力研究所第1号原子炉の建設である〔〔。鹿島守之助が会長就任後、鹿島建設の年間受注高は1963年に世界第1位(1368億円)に達し、1965年に鹿島建設は日本初の超高層ビルとして「霞が関ビル」を着工し超高層建設に先鞭をつけた〔。そうした偉業の傍ら、過酷労働で中国人137人を死亡させたことによる花岡事件(1945年6月)は鹿島守之助が社長の時に発生し、花岡事件を踏まえた日雇い労働者搾取に対する鹿島建設爆破事件(1974年12月)は鹿島が会長の時に発生した。 1975年、鹿島建設はドイツ民主共和国(東ドイツ/DDR)において超高層ビルの「DDR国際貿易センタービル」を受注した。鹿島守之助が哲学・思想を形成したドイツであり、彼は建設を熱望していた。14日後、鹿島守之助、永眠。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿島守之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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