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鹿島家(かしまけ)は江戸時代の米子の豪商。 == 歴史 == 鹿島家は同家の『永代記録第一』によれば、初代は岡山商人の高林三郎左衛門常吉である〔『米子商業史』1990年 52頁〕。米子へ小間物行商に来ているうち立町に定住することにし、親類の六兵衛も一緒に住んだという〔。三郎左衛門は、寛文12年(1672年)に没し、二代三郎左衛門が継ぎ、その弟は分家六兵衛(当時尾高町)方に養子となる〔。 三代目三郎左衛門は二代目の五男で、長男は尾高町に養子、二男は道笑町へ分家した〔『米子商業史』1990年 53頁〕。三代目のころは町裏に田畑若干を持ち、地利銭が八俵くらいあったという〔。店は間口三間あった〔。 四代目治郎右衛門の時、初めは商売がうまくいかず、屋根・庇がいたみ、戸障子もいたんだので茣蓙をつり下げてごまかした〔。親ゆずりの畑一反歩ばかりを耕し、豆腐や菎蒻を作って売り糊口を凌いだ〔。 ところが、宝暦9年(1759年)藩内で銀札騒動が起こり、米子でも新札と旧札の交換が渋滞し、商家も新札では品物を売らぬ状態が続いた〔。町中の貧民層では米屋が商いしないで困っている者が多いという状態をみて、治郎右衛門は、後藤家の分家七左衛門を通して、町年寄宮本助右衛門に頼み米屋開業の許可を得た〔。その年の11月米一俵からの商売を始め、麦・大豆・小豆・綿実なども取り扱うようになった〔。 天明5年(1785年)には弟の治助を分家させるために、米屋佐左衛門の持家表口三間半のものを銀三貫匁・三年賦で買い取り、治助に元手三貫匁を持たせた〔。穀物・醤油・質商を営むかたわら、利益金をもって田畑の買い取りも行った〔。 寛政11年(1799年)本分家で相談して両家共同の『算用帳』を毎年正月に仕立てることにし、さらに一族永代繁栄のために二十三ヵ条の起請文を定めた〔。 鹿島家はその家憲に風雅華美をいましめたとはいえ、文化文政以後一族から長智・重正・重尚・重好・長行らの歌道や茶道などに深い造詣を示した人々を輩出している〔『米子商業史』1990年 54頁〕。同家に伝える『茶会記』などによると、米子、松江から上方にいたる範囲で士族・僧侶・医家・商人の社会に広い交わりのあった豪商鹿島家の一面をうかがうことができる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿島家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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