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鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.142.〕〔''鹿島俊策''、''jlogos.com'', エア、2013年1月30日閲覧。〕〔''鹿島俊策''、''鹿島陽之助''、日本映画データベース、2013年1月30日閲覧。〕〔''鹿島俊策''、''鹿島俊作''、''鹿島陽之助''、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月30日閲覧。〕〔''鹿島俊策''、日本映画製作者連盟、2013年1月30日閲覧。〕〔''鹿島俊策''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月30日閲覧。〕〔''鹿島俊策''、日活データベース、日活、2013年1月30日閲覧。〕。本名恵良 俊二郎(えら しゅんじろう)、旧芸名鹿島 陽之助(かしま ようのすけ)〔〔。一部鹿島 俊作という表記もみられる〔。 == 人物・来歴 == 1902年(明治35年)9月25日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる〔〔。 旧制・大分県宇佐中学校(現在の大分県立宇佐高等学校)を卒業し、東京府荏原郡羽田町穴森(現在の東京都大田区羽田)に相羽有が開いた日本飛行学校に進学、航空機の操縦を学ぶ。同校を卒業した後は、欧州航路の船員を務めたこともあったという〔〔。自動車・オートバイの運転、ダンスも得意であるという人物である〔〔。牧野省三が日活から独立して設立した牧野教育映画製作所に1923年(大正12年)に入社、「鹿島 陽之助」として脇役出演を開始する〔。1923年(大正12年)6月1日、マキノ映画製作所が設立されるとそのまま所属し、1924年(大正13年)7月、マキノ映画製作所が東亜キネマに吸収されると、東亜の甲陽撮影所に異動し、役がつきはじめる〔〔。1925年(大正14年)6月、牧野省三がマキノ・プロダクションを設立した後、マキノに復帰する〔〔〔。1926年(大正15年)8月6日に公開された高見貞衛監督のオートバイ映画『驀進』で主演に抜擢、得意のオートバイ操縦を披露する〔〔〔。同年10月22日に公開されたマキノ正博の監督デビュー作『青い眼の人形』にも青年英謙二役で出演している〔〔。翌1927年(昭和2年)2月9日に公開された鈴木謙作監督の『獣人』にも主演したが、同年8月、同社を退社した〔〔〔。 1928年(昭和3年)3月、河合徳三郎が設立したばかりの河合プロダクション(のちの河合映画製作社)に移籍、同社の町屋撮影所で製作され、同年3月9日に公開された悪麗之助監督の『ふくろう組』に出演した〔〔〔。1931年(昭和6年)には同社を離れ、東京シネマ商会が製作、同年2月11日公開、小沢得二・細山喜代松が共同監督したサウンド版『大空軍』に主演、同年6月には、松竹蒲田撮影所に移籍、「鹿島 俊策」と改名した〔〔〔。翌1932年(昭和7年)初頭には準幹部待遇となった〔。しかしながら主演作はなく、トーキー作品もつくられはじめているにもかかわらず、サイレント映画への出演が続き、1934年(昭和9年)7月26日に公開された宗本英男監督の『血染の制服』に出演した後に退社している〔〔。松竹蒲田でサイレントばかりに反発して独立、トーキー製作のために重宗務が設立した東京発声映画製作所に、鹿島も1936年(昭和11年)に移籍し、数本に出演したが、満35歳となった1937年(昭和12年)11月17日公開、豊田四郎監督の『若い人』に出演した以降、出演記録が途絶えた〔〔。時代は第二次世界大戦に突入、その後の消息はわからない。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿島俊策」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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