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鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である〔金閣寺とは 、臨済宗相国寺派〕。 寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ〔金閣寺のあゆみ 、臨済宗相国寺派〕。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐〔千鹿野 茂『日本家紋総鑑』ISBN 4040315006 角川書店、1993年、373頁。〕。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建された。平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。 == 歴史 == この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた〔「衣笠キャンパス略史 — 校地・校舎の変遷について - (著・久保田謙次)」 立命館百年史紀要 第二十一号(2013年3月28日発行)287頁 - 332頁 〕。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。 応永4年(1397年)、室町幕府3代将軍足利義満が河内の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌16年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。 その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された〔桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫)2009年(原著は2001年 ISBN 406268912X)ISBN 978-4062689120、84-85p〕。また、応永23年(1416年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている〔細川武稔「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館)2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)ISBN 978-4642028875、29・36p〕。応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。 応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により明治27年(1894年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。 舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき明治30年(1897年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、昭和4年(1929年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、明治37年(1904年)から明治39年(1906年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により大正14年(1925年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により昭和31年(1956年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。 昭和25年(1950年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ〔【もう一つの京都】日本国王・義満の威光から昭和の放火まで 鹿苑寺金閣の魅力 、MSN産経ニュース、2008年11月23日〕〔写真特集:金閣炎上 悲劇乗り越え、世界の「美」に(2010年7月掲載) 、毎日.jp、2012年7月6日〕、昭和27年(1952年)着工、昭和30年(1955年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。 昭和61年(1986年)から翌62年(1987年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、平成9年(1997年)に夕佳亭の解体修理、平成17年(2005年)から19年(2007年)に方丈の解体修理も行われている。 平成6年(1994年)12月、当寺が構成要素のひとつとなった世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。 画像:Kinkakuji 2004-09-21.jpg|鏡湖池と金閣 画像:Rokuonjikinkaku-winter commons.jpg|雪化粧した神秘的な金閣 画像:Kinkakujihonden.jpg|金閣(北東から) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿苑寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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