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鹿 鍾麟(ろく しょうりん)は中華民国から中華人民共和国の軍人。北京政府、国民軍の有力軍人であった。馮玉祥配下の「五虎将」(他は張之江・宋哲元・鄭金声・劉郁芬)の1人と目される。字は瑞伯。 == 事跡 == === 馮玉祥の古参部下 === 大地主の家庭に生まれ、当初は文官の道を志した。しかし、日露戦争に触発されて文を捨て武の道を進むことを決める。1906年(光緒32年)、新軍第6鎮第1混成協の兵士となった。1908年(光緒34年)、馮玉祥が組織した武学研究会に加入した。1910年(宣統2年)、第6鎮第40協第79標副官に就任する。 1911年(宣統3年)12月、革命派の灤州起義に馮玉祥に従い参加したが、失敗に終わった。1912年(民国元年)、鹿鍾麟は第20師第39旅第2団副営長に就任する。1915年(民国4年)、第39旅が第4混成旅に拡大・編制されると、そのまま副営長に留任している。 同年、袁世凱が陳宧を督理四川軍務に任命する。このとき、馮玉祥が旅長を務める第16混成旅と鹿鍾麟が属する第4混成旅も、これに随従して四川入りした。同年12月末に、袁世凱の皇帝即位に反対する護国戦争が勃発し、蔡鍔らが率いる護国軍第1軍が四川に進攻してくる。2個混成旅は瀘州でこれを迎撃することになり、この時に鹿は馮と再会してその配下となった。 馮玉祥は護国軍に同情的であったため、これに敵対する陳宧を何とか翻意させようと考えていた。この時に鹿鍾麟は、馮にそのための様々な献策を行っている。結局、1916年(民国5年)5月に、陳は四川独立に追い込まれた。馮の軍は護国軍第5師に改編され、鹿は第5師第3団営長に就任した(護国戦争終結後、第16混成旅に復帰)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿鍾麟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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